先週3DSソフト「NEWラブプラス+」の発売が発表され、同時に予約も開始されました。シリーズは初作からずっと買っているので新作も購入する予定ではあるのですが仕様も何も全く紹介されてない段階で本体同梱版(33,600円)を予約するのはちょっと勇気が要ります。で、只今絶賛迷い中。でも締め切りはもう目の前。ホントどうしよう。
こんばんは、小島@監督です。
ラブプラス自体は実は今でもまったり続けています。ただし、バグやフリーズの少ないDS版ラブプラス+の方ですが。通算プレイ日数がもう1,300日を超えているのでちょっとした習慣みたいになってきました。
さて、今回は1960年初頭イスラエルでのアイヒマン裁判においてその裁判を傍聴しレポートを著した女性哲学者の苦闘を描いた「ハンナ・アーレント」です。
1960年、ナチス親衛隊で数百万人のユダヤ人を強制収容所に移送した責任者アドルフ・アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの諜報部(モサド)に逮捕された。
ニューヨーク在住のユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)は裁判の傍聴を希望、雑誌社にレポート執筆を持ちかける。既にその著作で名声を得ていたアーレントの要望は即座に受け入れられ、翌年アーレントはイスラエルへ渡る。
裁判を傍聴したアーレントは、そこでアイヒマンが想像した凶悪な人物ではなくごく平凡な、どこにでもいる人間であることに気づく。人を数百万人も死地に追いやる事に何の躊躇いも持たなくなるその「悪意の根源」に何があるのか、アーレントの「思考」が、世に大きな波紋を投げかける事になる。
世に名高いアイヒマン裁判、その被告であるアイヒマンではなく、担当した裁判官でもなく、それを傍聴していた女性哲学者が主役というなかなか珍しい歴史ドラマです。
アイヒマン裁判のシーンには実際の記録映像を用いており、観客はアーレントと共に、アーレントが 言う「凡庸な悪」の姿を見る事になります。そしてそこからアーレントの思考の旅を追走する事になります。
アーレントの言う「悪の凡庸さ」とは良心との葛藤や思考を止め人道をはるかに外れた命令でも唯々諾々と従ってしまうその「思考停止」にこそあるとし、人が神より与えられた重要な資質である「考える」事を決して止めてはならないと説きます。
それはアイヒマンの事だけでなく、映画後半、記事を著した事(記事中ではアイヒマンだけでなく結果的にナチに手を貸したことになるユダヤ人指導者達にも言及していた)でユダヤ人社会から敵視され大量の誹謗中傷を浴びる事になりますが、アーレントを罵倒する者の多くが彼女の記事を読んでいなかった所にも掛かっていると言えるでしょう。この点は編者が恣意的にまとめた「ニュース」や「まとめサイト」を一読しただけで記事中の人物を簡単に攻撃してしまうような事象が横行してる昨今にも重要な指摘と言えるかもしれません。
非常に重厚な作りの映画ではありますが、アーレントを理解し愛を貫く夫ハインリヒや、一向に記事が上がらないのにやきもきしてるにも関わらずアーレントに強く出られない雑誌編集長のショーンらとのやり取りや、喧々囂々怒号交じりのディスカッションを戦わせたかと思えば笑顔で乾杯する学者仲間たちの傍目にはちょっと厄介なテンションなど、コミカルなアクセントが絶妙に効いていて決して息苦しいだけの物語にはなってない辺り、監督マルガレーテ・フォン・トロッタの卓抜した手腕の為せる業ですね。
また、記事を発表した事で多くの友を失いながらもその苦悩を紫煙の向こうに(アーレントはかなりの愛煙家だったようで作中ずっと吸ってます)隠しながら「悪の凡庸さ」と対峙しその思考を続けるアーレントの姿を描くこの映画は、ある種のハードボイルド・ロマンとも言えるでしょう。1発の銃弾も放たれない代わりに飛び交うのは「言葉」です。クライマックスにアーレントが語る8分間のスピーチは、きっと観る者の魂を揺さぶる事でしょう。
またしてもミニシアター(東海では現在今池シネマテークのみ)での公開というちょっとハードルの高い作品ではありますが、現代への示唆も多く織り込まれたこの作品、出来るだけ多くの人に観て欲しいですね。
こんばんは、小島@監督です。
ラブプラス自体は実は今でもまったり続けています。ただし、バグやフリーズの少ないDS版ラブプラス+の方ですが。通算プレイ日数がもう1,300日を超えているのでちょっとした習慣みたいになってきました。
さて、今回は1960年初頭イスラエルでのアイヒマン裁判においてその裁判を傍聴しレポートを著した女性哲学者の苦闘を描いた「ハンナ・アーレント」です。
1960年、ナチス親衛隊で数百万人のユダヤ人を強制収容所に移送した責任者アドルフ・アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンでイスラエルの諜報部(モサド)に逮捕された。
ニューヨーク在住のユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)は裁判の傍聴を希望、雑誌社にレポート執筆を持ちかける。既にその著作で名声を得ていたアーレントの要望は即座に受け入れられ、翌年アーレントはイスラエルへ渡る。
裁判を傍聴したアーレントは、そこでアイヒマンが想像した凶悪な人物ではなくごく平凡な、どこにでもいる人間であることに気づく。人を数百万人も死地に追いやる事に何の躊躇いも持たなくなるその「悪意の根源」に何があるのか、アーレントの「思考」が、世に大きな波紋を投げかける事になる。
世に名高いアイヒマン裁判、その被告であるアイヒマンではなく、担当した裁判官でもなく、それを傍聴していた女性哲学者が主役というなかなか珍しい歴史ドラマです。
アイヒマン裁判のシーンには実際の記録映像を用いており、観客はアーレントと共に、アーレントが 言う「凡庸な悪」の姿を見る事になります。そしてそこからアーレントの思考の旅を追走する事になります。
アーレントの言う「悪の凡庸さ」とは良心との葛藤や思考を止め人道をはるかに外れた命令でも唯々諾々と従ってしまうその「思考停止」にこそあるとし、人が神より与えられた重要な資質である「考える」事を決して止めてはならないと説きます。
それはアイヒマンの事だけでなく、映画後半、記事を著した事(記事中ではアイヒマンだけでなく結果的にナチに手を貸したことになるユダヤ人指導者達にも言及していた)でユダヤ人社会から敵視され大量の誹謗中傷を浴びる事になりますが、アーレントを罵倒する者の多くが彼女の記事を読んでいなかった所にも掛かっていると言えるでしょう。この点は編者が恣意的にまとめた「ニュース」や「まとめサイト」を一読しただけで記事中の人物を簡単に攻撃してしまうような事象が横行してる昨今にも重要な指摘と言えるかもしれません。
非常に重厚な作りの映画ではありますが、アーレントを理解し愛を貫く夫ハインリヒや、一向に記事が上がらないのにやきもきしてるにも関わらずアーレントに強く出られない雑誌編集長のショーンらとのやり取りや、喧々囂々怒号交じりのディスカッションを戦わせたかと思えば笑顔で乾杯する学者仲間たちの傍目にはちょっと厄介なテンションなど、コミカルなアクセントが絶妙に効いていて決して息苦しいだけの物語にはなってない辺り、監督マルガレーテ・フォン・トロッタの卓抜した手腕の為せる業ですね。
また、記事を発表した事で多くの友を失いながらもその苦悩を紫煙の向こうに(アーレントはかなりの愛煙家だったようで作中ずっと吸ってます)隠しながら「悪の凡庸さ」と対峙しその思考を続けるアーレントの姿を描くこの映画は、ある種のハードボイルド・ロマンとも言えるでしょう。1発の銃弾も放たれない代わりに飛び交うのは「言葉」です。クライマックスにアーレントが語る8分間のスピーチは、きっと観る者の魂を揺さぶる事でしょう。
またしてもミニシアター(東海では現在今池シネマテークのみ)での公開というちょっとハードルの高い作品ではありますが、現代への示唆も多く織り込まれたこの作品、出来るだけ多くの人に観て欲しいですね。
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