ちゅうカラぶろぐ


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たまたま先日「本を6冊以上積読している人は年間どれくらい金銭的損失をしている?」みたいな記事が回ってきたのですが、積読を金銭的損失で語ってしまうセンスがどうとかいうのもあるのですが、それより何よりたかだか6冊程度で積読とかいう?みたいなところが引っかかってしまいどうしたものか(笑)
 特にコスパとかタイパとかを重視する記事になると、時折全く自分とは感覚も感性も交わらない物を見かける時がありますね。

 こんばんは、小島@監督です。
 で?私は今どれくらい積んでいるのかって?HAHAHA!それは言いっこ無しさ!

 さて、今回の映画は「フェラーリ」です。

 1957年、イタリアの自動車メーカー・フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリ(アダム・ドライバー)は窮地に立たされていた。オートレースの世界で好成績を残し名声を上げるも、自動車製造は小規模での手工業ゆえに販売数は伸びず経営は火の車。前年に最愛の息子アルフレードが病没したことで妻ラウラ(ペネロペ・クルス)との仲も冷え切り、愛人リナ(シャイリーン・ウッドリィ)と隠し子であるピエロと過ごす時間だけが僅かな慰めだったが、関係を隠している以上ピエロを認知することも叶わずにいた。大手企業による買収の噂も囁かれる中、エンツォは再起を懸けてイタリア全土を駆ける公道レース「ミッレミリア」への挑戦を決意する。

 それは、モータースポーツが今より遥かに危険だった時代。
 「ヒート」「コラテラル」などで知られるハードボイルド・ドラマの名手マイケル・マン監督。80歳を過ぎてもその手腕は衰えない彼の最新作は、自動車産業のレジェンド・エンツォ・フェラーリの伝記映画です。1980年代に同氏が手掛けたドラマ「特捜刑事マイアミ・バイス」で主人公ソニー・クロケット刑事の愛車としてフェラーリ365デイトナ・スパイダーをチョイスしたり、自身も複数台のフェラーリを所有するなど生粋のファンとも言えるマイケル・マンがエンツォ・フェラーリを主人公にした映画を監督するのはまさに適材適所と言えるでしょう。しかし骨太なドラマを描くマン監督が描くのは栄光に輝く瞬間ではなく、ある意味でフェラーリで最も「何もかもが上手く行ってなかった時期」とも言える1957年の、更にその内の数ヶ月間です。付け加えるとマイケル・マンが製作総指揮を務めジェームズ・マンゴールドが監督を担った2019年製作の「フォードvsフェラーリ」の時代背景は1963〜64年。今作からはもう少し先の話になります。
 
 マイケル・マン監督のいぶし銀で重厚なテリングの妙が全編で熾火のように光り続けるこの作品、ただその熱量に身を任せて楽しむだけでもじゅうぶん面白い作品ですが、やはりある程度の予備知識はあった方が良いでしょう。エンツォとラウラ夫婦、映画冒頭から2人に陰を落とす前年に病没した息子アルフレード、彼はエンジニアとして確かな資質を持っており病床で残したアイディアを元にして作られたと言われているのがアルフレードの愛称ディーノの名を冠した名車「ディーノ206/246」です。それほどに愛した息子が死んだ翌年、失意を隠せぬままに危機に陥る公と私に向き合うことになります。

 個としての苦悩が滲み出る家庭人としてのドラマと、レーサーが事故死しても眉ひとつ動かさない公人としてのドラマを二本軸にして進む今作、一見では誰か分からないくらいの老けメイクでエンツォを演じるアダム・ドライバーと、ちょっとヒステリックに見えながら冷徹な計算のもとに動くラウラを演じるペネロペ・クルス両者の火花散るような演技がひたすらに素晴らしいです。
 そしてもちろんモータースポーツを描く物語ですし、レースシーンの迫力も見事です。さすがに動態保存されてるものは一台で何億もするので大半はレプリカだそうですがそれでもクラシックカーが疾駆躍動する映像は観てて結構アガります。

 創造の情熱と狂騒に取り憑かれ今なお続く栄華の礎を築くことになる男の苦悩と前進、刹那的でギラついたドラマを全身で浴びたい人には打ってつけの一本。真夏に敢えて辛いものを食べに行くような心持ちで、どうぞ。

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「うる星やつら」に続いて「らんま1/2」の再アニメ化が発表されたり「魔法騎士レイアース」の再アニメ化が発表されたり「キン肉マン」の新作が放送開始したり「あぶない刑事」の新作映画が公開されたり今は一体何時代なのか良く分からなくなって来ている中、今日目に飛び込んで来た「魔法少女リリカルなのは20周年」に謎の大ダメージ。マジか。

 こんばんは、小島@監督です。
 このブログ書き始めた頃に劇場版なのは1作目の感想を書いたりした思い出。思えば遠くへ来たものです。

 さて、今回の映画は「クワイエット・プレイス:DAY1」です。

 末期癌を患いホスピスで暮らすサミラ(ルピタ・ニョンゴ)は、人生の最期を前に厭世的な日々を送っていた。セラピーの誘いでマンハッタンの劇場までやって来た日、サミラは空から多数の隕石が降り注ぐのを目撃する。間を置かず「何か」が人々を襲い始め、辺りは阿鼻叫喚の地獄と化した。「何か」は音に敏感に反応して襲うことを知ったサミラは愛猫フロドと共に息を潜め「何か」を避けながら、破壊された日常と尽きようとする自身の生命を前にある決意をする。

 やはりもふもふ。もふもふは全てを解決する。
 「音」に反応して人間を襲う外宇宙からの生物の襲撃により文明が崩壊した世界での、とある家族のサバイバルを描いたパニックホラー「クワイエット・プレイス」、そのシリーズ第3作は舞台をこれまでの田舎街からニューヨークへ移し、生物が襲来した「その日」を描きます。2作目「破られた沈黙」でも冒頭でDAY1の様子が描かれていましたが、その部分を1本の長編へとスケールアップさせた作品と言った趣きです。1名、前作からの人物が登場しますがほぼ独立した物語と言って差し支えありません。前2作で監督を務めたジョン・クラシンスキーは今回はプロデューサーとして参加し、監督は「PIG」で知られるマイケル・サルノスキにバトンタッチ。これまでよりひと味違った叙情的な雰囲気の作品に仕上げています。

 まず末期癌を患う詩人、という主人公の造形が異色です。そもそも死期が近いサミラは、怪物のファーストアタックをどうにかかいくぐったところで未来が無いことを自覚しています。だからサミラは他の人物のように生を希求して脱出ルートを探すのではなく自身の生を全うするための道を選びます。物語がパニックホラーの定型を取らないことと特殊な人物像が相まって主人公に不思議と感情移入しにくいのがポイントです。そしてそんな観客の視線を集めることになるのがサミラの相棒であるフロドという名の1匹の猫。この映画を実に味わい深いものにしているのはこのフロドの存在です。というかこの猫が事実上主役。
 監督はモンスターと猫のどっちを見せたいんだと思うくらいに猫の佇まいが魅力的。介助用に訓練されてもいるらしく不用意に鳴いたりしないし足音も静かと、真っ先に状況に順応するのもフロドですし、極限の緊張状態の中で猫を吸って落ち着けることのアドバンテージが強い(笑)。何ならホラー映画としての緩急もフロドがフレームインしてるかどうかにかかっているくらい。
 
 映画の最初から最後まで猫の可愛らしさ、気高さ、強さ、奔放さが全部盛り。曲がりなりにもホラーにカテゴライズされる映画の薦め方としてこういうのは正直どうかと思いますが、間違い無く現時点での今年最猫映画です。スリルを味わいたい向きより、猫を全力で堪能したい方にこそどうぞ。このもふもふにやられちゃってください(笑)。

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いよいよアニメも最終局面に向かおうとしている「鬼滅の刃」、無限城編は劇場版3部作での公開となることが発表されました。いやそれ自体は良いのですが、原作のボリュームと密度的に3部作で足りるのか?という疑問が。ひょっとすると無限城編の後に最終章が前後編で劇場公開くらいはやるかもしれない。

 こんばんは、小島@監督です。
 ま、もちろんここまで来たら全部観に行きますけどね!何部作になろうがどんとこいだ!

 さて、今回の映画は「ルックバック」です。

 東北の小学校で、藤野(声・河合優実)は学年新聞に4コマ漫画を描いて生徒たちから人気を博していた。ある時担任から不登校の京本(声・吉田美月喜)も漫画を描いているので4コマの枠を一つ分けても良いかと提案される。二つ返事で了承する藤野だったが後日学年新聞に掲載された京本の作品に愕然とする。自分よりも絵の上手い者がいることが許せない藤野は猛然と絵の勉強を始めるようになるが、一向に埋まらない京本との差の前に6年生の時に遂に筆を折ってしまう。卒業式の日、担任の頼みを断り切れず藤野は京本の家へ卒業証書を届けに行く。そこで2人は初めて顔を合わせることになるのだった。

 原作に向き合うとは、決して寄り添うことだけではない。強くリスペクトするが故に正面切って対峙する道もある。原作は「チェンソーマン」で知られる藤本タツキ氏が2021年に発表されるやSNSでトレンド入りした中編読切。それを「電脳コイル」の中核アニメーターでもあった押山清高が監督・脚本・キャラクターデザインに絵コンテ・作画監督・原画までをこなし、作品と真っ向勝負してアニメでしか成し得ない映像でもって映画を作り上げました。
 出会いをきっかけにライバルから唯一無二のソウルメイトとなる藤野と京本の、漫画に懸けた青春と、絶望の先にある希望が描かれます。名前からして2人とも作者の一部分が投影された人物でもあるのでしょう。登場人物が抱く複雑な感情の源泉には作者の原体験があるのかもしれません。

 とにかく目を引くのが徹底して手書きの描線を活かした映像です。描く人の物語である原作を、生半可なことでは映像化はできないと腹をくくったのかただひたすらに描き上げることで応えています。基本的には原作を大きく追加も省略もしていない忠実な作りで、やっていることは一コマ一コマの解像度を極限まで上げ動きをつけ声や音を乗せて映画として紡ぐ、最も地味で最も難しい道を決然と進んでいることにこの映画の凄みがあります。
 動きに感情が乗った時の所作、停滞している時の手癖、走り出すような大きなアクションだけでなく些細な動きの中でさえアニメーションのダイナミズムが宿り、そこに河合優実、吉田美月喜主演2人の誠実な演技とharuka nakamuraの手によるリリカルな音楽が加わり映画の格を一段も二段も上げています。

 終盤に差し掛かり、恐らくは幾重にも意味を包含した「ルックバック」というタイトルに託されたものに気づく頃にはこの映画は観る者にとって忘れ得ぬ映像体験になっていることでしょう。ここには創作に携わる者の喜び、痛み、悲しみ、全てが凝縮されています。今もクリエイティブに身を置く人だけでなく、かつて挫折したことがある人にもきっと届くことでしょう。そして藤野と京本のように、あるいはこの原作をアニメ化しようとした押山監督ら製作陣のように、この映画もまた、きっとこれから先にこれを観た誰かが追いかける背中になるはずです。
 上映時間の中編に対してどこで観ても割引不可の1,700円固定という完全にコアなファン向けの強気の価格設定をしていますが、作品の持つ密度の高さは2時間の映画にいささかも引けを取りません。間違い無く今年を代表する一本足り得る作品です。
 それにしても「ウマ娘新時代の扉」と言い手書きのダイナミズムを堪能できるアニメーション映画の秀作が同時期に複数公開されている驚きと喜びよ。日本のアニメはまだまだやれそうです。

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昨日の歌会に参加された皆さん、お疲れ様でした。
 残念ながら私は今母が入院していたりと少々立て込んでいて欠席せざるを得ない状況でして、今回は参加を見送らせてもらいました。皆とマッドマックストークとか宝塚記念トークとかしたかったのですが(苦笑)。

 こんばんは、小島@監督です。
 次回は参加できると良いのですが。歌いたい曲もあるし。

 さて、今回の映画は「ぼっち・ざ・ろっく!Re:」です。

 極度の人見知りの少女・後藤ひとり(声・青山吉能)は、そんな自分でも輝きたいとバンド活動に憧れギターを練習し始めるものの、結局友達はできずじまいで中学時代は1人で毎日6時間練習し続ける日々を過ごすに留まってしまった。ひとりは練習の成果を動画に撮影して「ギターヒーロー」の名でネットにアップするようになり、ファンも付くようになるが自身の性格を変えるまでには至らずそのまま高校生になってしまう。
 高校生になってもぼっちのままのひとりだったが、ある日脱退したバンドメンバーの代わりを探す伊知地虹夏(声・鈴代紗弓)と出会い、日常が少しずつ変わっていく。

 確か前評判自体はそれほどではなかったように記憶していますが、放送開始とともに評価が上がっていき2022年のアニメを代表するタイトルとなった「ぼっち・ざ・ろっく!」、そのTVシリーズ全12話を再構築した総集編が現在公開中です。実のところ放送時全くもってノーチェックでタイトルだけしか知らないままに、先日電車が一時運転見合わせになり足止め食らった時に時間潰しに観てきました。こんな形で機会が降って湧いて来なければスルーするつもりでいました。これもまた一つの縁。主人公を始め結束バンドのメンバーの苗字が後藤・伊知地・山田・喜多ということはASIAN KUNG-FU GENERATIONへのリスペクトでしょうか。と、勝手に想像して今回のブログのタイトルもアジカンの曲から引用して付けてみました。

 観るまでは映画のフォーマットを活かしてスピード感のある構成でライブシーンを積極的に組み込んで来るのかなと思っていたらそうではなく、思いのほかじっくりとした足取りで物語を紡いでいきます。本編開始前に上映に当たっての諸注意を伝えるショートムービーが流れ、ここだけはかなりファン向けに作られていたため初見には辛いヤツを掴んじゃったかとちょっと不安になりましたがそれも杞憂でした。エピソードの選択の確かさと掘り下げるべきところはきっちり掘り下げる過不足の無さに驚きます。この辺りは現在放送中の「虎に翼」でも高い評価を得る脚本・シリーズ構成を務めた吉田恵梨香の手腕によるものでしょう。

 もう一山この後にあるんじゃないかな?というところで終わるのでもしやと思えば、これ前後編2部作での公開なんですね。それすら知らずに観てました。この前編ではTVシリーズの8話までを再構成しているようなので後編の方は残りのエピソードをほぼノーカットで組み上げて来るか、大胆にボリュームアップする感じになるのでは。既存のファンをも驚かせるような映像に仕上がっていると良いですね。せっかくなので私も後編公開されたら観に行こうと思っていますよ。

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先週、何をもらってしまったのか高熱が出るわまるで飲んだくれが喧嘩した後みたいに顔が赤く腫れるわで散々な1週間でした。まるっとほぼ1週間出社もできずに寝込んでしまうとか数年ぶりのザマでようやく腫れがほぼ消えたとは言えホント冴えない感じです。

 こんばんは、小島@監督です。
 しかも今のところ原因不明。明日受けた検査の所感が聞けるので何か分かると良いのですが。

 さて、今回の映画は「マッドマックス:フュリオサ」です。

 文明が崩壊し、荒廃しつつある大地。辛うじて水と森が残る「緑の地」で暮らすフュリオサ(アニャ・テイラー=ジョイ)は、バイカー軍団の緑の地への侵入を妨害しようとして逆に拉致され軍団のリーダー・ディメンタス(クリス・ヘムズワース)の元に連れて来られ、更にフュリオサを救出しようと単身乗り込んで来た母親メアリー(チャーリー・フレイザー)も拷問され殺されてしまう。
 ディメンタスは砦を支配するイモータン・ジョー(ラッキー・ヒューム)と交易を持ちかけ、フュリオサをジョーの花嫁として差し出した。

 2015年に公開されアクション映画の傑作として映画史にその名を刻む「マッドマックス:怒りのデス・ロード」、そのスピンオフにして前日譚となる作品です。前作ではシャーリーズ・セロンが演じ強烈な印象を残した孤高の女戦士フュリオサの若き日の復讐を、今作ではアニャ・テイラー=ジョイが引き継ぎ体当たりで演じています。フュリオサの復讐の相手となるディメンタスの、狂おうとして狂い切れず壊れていくユニークなキャラクター像をクリス・ヘムズワースが怪演しています。監督はマッドマックスシリーズ全作を手掛けたジョージ・ミラーが今作でも監督を務め、80歳を目前にしているとは思えない熱量で物語を紡いでいます。

 前作のようなアッパーテンションなノンストップアクションを期待していると、多くの点で対照的な作品です。温度感は確かに高いものの思いのほか語り口がどっしりしていて硬質なことに人によっては違和感を覚えるのではないでしょうか。前作が作中の経過時間が3日だったのに比して今作では15年という時間の中でフュリオサの戦士としての成長と復讐の行方を追います。「ヒストリー・マン」という全身に歴史を書き記して語り伝える老人の語りで進む今作は、より英雄叙事詩的な性格の強い作品となっています。
 見た目からしてエッジの効いたキャラクターたちは相変わらず多いものの、容赦の無いゴア描写でR15+だったレーティングは今作では直接的な人体破壊描写は避ける方向で作られているためかPG12設定となり、事実上年齢を問わず観られる作品となっていることも大きなポイントと言えるでしょう。

 ただ、レーティングが下がったからと言ってアクションがヌルくなったかと言うとそんなことありません。前作には無かった地対空のバトルシーンが盛り込まれるなどアイディアも手数も豊富。映像言語としての見せ方が圧倒的で、ほぼ砂漠ばかりの基本茶色っぽい画面で繰り広げられるアクションにはどこか宗教画の趣きがあります。しかもアクションシーンではセリフがほとんど介されないため実は作品全体の単語数は少ないのではないでしょうか。
 ちょっと匂わせて来る程度かなと思えば意外なほど「怒りのデス・ロード」へ直結するラストシーンしてるので前作も観たくなること必至。これぞ正しく前日譚。80歳を前にしても全く衰えを見せないジョージ・ミラーのエネルギッシュなファンキーぶりを、どうぞスクリーンでご堪能ください。

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先日アニメ製作スタジオ・ガイナックス倒産の報が。「ふしぎの海のナディア」以降ずっとその作品に親しんで来た身としては残念ではならないものの、製作の中心にいたメンバーは皆去って行き作品製作能力どころか版権を維持管理する能力すら失ってしまったとあっては最早時間の問題だった、というところでしょうか。

 こんばんは、小島@監督です。
 逆に意外と言うか、一番世俗から疎そうな庵野秀明監督が結構経営者としての才覚を見せているところに人の世の面白さ、複雑さみたいなものを感じますね。

 さて、今回の映画は配信作品から一つ、先日Netflixで配信が開始された「セーヌ川の水面の下に」です。

 トライアスロンの国際大会を控えているパリ。セーヌ川でホームレスが謎の生物に喰い殺される事件が発生していた。海洋学者であり環境活動家であるソフィア(ベレニス・ベジョ)の元に若手活動家のミカ(レア・レヴィアン)が訪ねてくる。ミカからソフィアはかつて自身が研究用にGPSを取り付けたアオザメ・リリスがセーヌ川まで来ていることを告げられる。ソフィアが最後に観測した時でさえリリスは7mの大きさに異常成長していた。それが淡水にも適応し始めていると気付いたソフィアは警官のアディル(ナシム・リエス)と共にリリスの捕獲・駆除に乗り出すが。

 B級以下が溢れ返っているジャンルなので意外と言うか何と言うか、昨年日本公開された「シャーク・ド・フランス」が製作されるまでフランスにはサメ映画というものが無かったようなのです。言われてみればサメ映画はアメリカを筆頭にオーストラリア、中国、日本と環太平洋の国ばかりな気が。そんなサメ映画未開の地フランスが、作り始めたらいきなりエグいのをブン投げて来ました。そしてコレがめちゃくちゃ面白い!
 
 環境汚染で巨大化・凶暴化したサメが淡水にも適応してセーヌ川で暴れまくります。海じゃなくて川だと岸に上がってしまえばそれで終わりでは?という当然の疑問を地下水道やカタコンベといった閉鎖的なロケーションを活用して緊張感が持続するように工夫されています。
 中盤まではモンスターパニック映画として比較的手堅い印象を受ける今作。ですがアメリカ産の映画と大きく異なるのは作品を貫くエスプリ利かせたペシミスティックな姿勢。先鋭化して危険な行動を取り始める環境活動家、巨大なサメが潜んでいると知りながらトライアスロン大会を強行しようとする市長、無知と傲慢が過ぎる人物が次々と登場して事態がどんどん悪化していきます。そもそも道頓堀川より水質が悪いと言われているセーヌ川で実際にパリオリンピックでトライアスロン競技を開催しそのために巨額の費用を投じているフランス政府を向こうに張ってこんな映画作ってオリンピック直前に世界配信に乗せてしまう当たりが既にロック。

 そして手堅いとか言っていられるのも中盤まで。終盤は異様なまでのテンションで観るものを狂騒にブチ込みます。いっそ清々しいくらいにあまりに強烈でドライブ感全開のクライマックスは、見慣れて使い潰されたかに見えるジャンル映画にまだ知らない領域があることを教えてくれます。観ていてちょっと思い出したタイトルがあるのですがネタバレになってしまうのでここでは言えません。

 監督のザビエ・ジャンは現在「ファラン」という作品が公開中ですが、できればこちらもスクリーンで観たかった。題材がヤバいのもありますが、フランスのアーカイブに保管されているシナリオと多くの類似が指摘されているとかで(そちらは襲って来るのはサメではなくナマズだとか。それはそれで観てみたいですが(笑))、その審査の成り行き次第では配信中止もあり得るとのこと。気になっている方は早めに観てラストにびっくりしましょう。また、エンドクレジットにひとネタ仕込んでいるので惰性でスキップしないことをお薦めします。

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緊急地震速報に飛び起きピリついた早朝、皆さんのところはどうでしたでしょうか。
 幸い自宅はほとんど揺れず、北陸の方も正月の時ほど大きなものではなかったようでホッとしていますが、油断は禁物ですね。

 こんばんは、小島@監督です。
 そしてもうちょっと寝れたのにという思いとちゃんと緊急地震速報が働く感謝がせめぎ合う朝。

 さて、今回の映画は「関心領域」です。

 青空のもと川まで子どもたちをピクニックに連れて行く父親、手入れに余念が無い母親により庭園には美しい花々が咲き誇り、菜園には野菜が実る。笑顔と喧騒が絶えない裕福な一家が過ごす大きな邸宅のそばには高い塀がどこまでも長く続いていた。
 塀の向こうからは煙突から流れる火煙と低い唸り声のような機械音と、それに混じって人の叫び声のようなものが時折聞こえてくる。
 ここはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、その隣。家主である父親は収容所初代所長ルドルフ・フェルディナント・ヘス(クリスティアン・フリーデル)である。

 そののどかさと美しさこそが恐ろしい。
 タイトルや予告編などのイメージから最初はいわゆる「無関心の悪」、あるいはハンナ・アーレントが言う「凡庸な悪」を戯画的に描き出す映画かと思っていたのですが原題を知ってそれは違うことに気付きました。原題は「The zone of interest」、ドイツ語にすると「Interessengebiet」、これはナチスがアウシュヴィッツ収容所とその周辺地域を指していた言葉です。
 映画が描いているのはルドルフを軸にしたヘス一家の日常風景。そして塀の向こうの光景は基本的に描かれません。恐ろしいのは何気ない日常の一コマの中に潜んでいるものの数々です。どこからかやって来る衣服、子どもたちの遊び道具の一つには誰かが使っていたらしい金歯や銀歯があり、夫婦の会話の中に毒ガスに因んだジョークが不意に登場したりします。何なら川釣りのシーンなどは下手なホラー映画が裸足で逃げ出す怖さしています。
 クローズアップの少ない俯瞰的で低温な画面の中にいくつも出て来るそれらは、ヘス一家が決して収容所に無関心を装ってなどおらず、むしろ相当に関心を持っていることがうかがえます。ただしその関心はユダヤ人の生にではなく、どう殺し絶滅へ持っていくかという方向にあります。それがヘス一家にとって出世に直結し人生を豊かにする評価へと直結する要因でもあるからです。

 一見すると裕福なドイツ人一家の生活を淡々と追うだけの映画に異様な恐ろしさを感じるのはそういう目で見える部分だけではありません。ただの環境音のように聞こえ続ける音がこの映画を凄みを増しています。唸るような低い機械音や列車の走行音に混じって悲鳴や銃声が聞こえてきます。塀の向こうで何が起きているかを容易に想像させるそれらの音は何がどこからどれくらい聞こえて来るか緻密に計算されて配置されており、その巧みな音響設計でこの映画はアカデミー賞音響賞を獲得しました。

 少々ネタバレになりますが、ヘス一家とその関係者以外にも登場する人物がいます。夜な夜な収容所付近の労働現場に忍び込んではリンゴなどの食糧を埋め隠していく少女。作中名前の出てこない一見寓話的にも見えるその少女、なんと実在した人物で名をアレクサンドラ・ビストロン・コロジエイチェックと言います。ポーランド人であった彼女はレジスタンスの協力者としてアウシュヴィッツからの囚人救出に力を尽くしました。そしてそのアレクサンドラが拾うことになる楽譜も実際にアウシュヴィッツに収容されていたユダヤ人歴史家ジョセフ・ウルフの手によるものと作中に示されています。

 これまで数多く作られており言葉は悪いですが映画の題材としてはどこかで使い尽くされて来た感もあるホロコースト。見える形で全く描き出さないことで逆に主題をあぶり出す、この極めてユニークな独創性は特筆に値します。短絡的で反射的な情動からは真逆を行くこの映画は、1か0かの情報が溢れ返る今こそ向き合う価値のある作品と言えるでしょう。
 是非、向き合ってみてください。

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