連日の厳しい暑さに耐えきれず、先日日傘を購入しました。正直日傘とか似合うタイプでないのは重々承知していますが、昨今の猛暑のエグさはそんなカッコつけてられる具合でもなくなってきたので遂に日傘ユーザーの仲間入りです。
いや~使ってみたらビビるほど快適。これ程の威力があるものだとは。なるほど夏場は手放せそうにないわ。
こんばんは、小島@監督です。
ま、そうは言っても元々が汗っかきなので汗ダルマになる運命からは逃れられなかったんですがね…(苦笑)
さて、今回の映画は「Gのレコンギスタ」です。
科学技術が頂点を極めながらも、宇宙戦争が繰り返され人類が滅亡の危機に陥った「宇宙世紀」が終焉を迎えて1,000年以上の時が流れ、「リギルド・センチュリー」と呼ばれる新たな世紀を迎えるに至った世界。前世紀の遺物たる「キャピタル・タワー」は、宇宙よりエネルギー源「フォトン・バッテリー」を地球に供給する唯一の経路として、キャピタル・タワーの地球側基地は「キャピタル・テリトリィ」と呼ばれて神聖視されていた。
宇宙世紀時代の技術は禁忌とされ封印されていたが、アメリアとゴンドワンの二大国は緊張状態が沸点に達し大陸間戦争が勃発するに至り、封印された技術の復元を始めてしまう。
そんな折、宇宙から所属不明のモビルスーツがキャピタル・テリトリィに降下してくる。キャピタル・テリトリィの自衛組織「キャピタル・ガード」の候補生ベルリ・ゼナム(声・石井マーク)は、モビルスーツから降り立った少女アイーダ・スルガン(声・嶋村侑)と運命の出逢いを果たすのだった。
齢80を超え「巨匠」と呼ばれる領域に達していながら「鬼滅の刃」や「エヴァンゲリオン」など時代の寵児となった作品に対抗意識を燃やす、創作意欲の塊のような御大、富野由悠季監督が、2014年に放送されたTVシリーズ「Gのレコンギスタ」を5部作という破格の構成で再構成され、2019年より順次公開されていきましたが、完結編に当たる第5部「死線を超えて」が先日遂に公開されました。
特徴的なセリフ回しや絵コンテのキレと言い、富野由悠季ならではの語り口が全5部通して炸裂しているシリーズです。ナレーションを排し、場面や用語の説明は最低限にして物語が進むため、一見するとかなり分かりにくく感じる方も多いでしょう。
戦闘の様相も、基本的には国家間の闘争だった「機動戦士ガンダム」や、異なる文化圏同士の相克を描いた「∀ガンダム」のような富野由悠季監督の過去作品と違い、フォトン・バッテリーや封印された技術を巡るいわば「利権争い」であり、そこに国家的なイデオロギーは介在しているもののどの陣営からも離反者を出してしまい、そんな人たちが寄り集まった海賊「メガファウナ」という勢力(アイーダはもちろんベルリもここに属することになる)も登場し、最終的には四つ巴のような状況になるので実相はかなり複雑です。ですがそれを明瞭にしてくれるような解説は作中ではなされません。ただTVシリーズと違うのは物語の軸足をベルリとアイーダの旅路にフォーカスし続けるので少なくとも「どこを観れば良いか」という点についてのみガイドがあるようにできている点にあるでしょう。
一方で、TVシリーズ以上に強調されている点が2つあります。1つはモビルスーツ戦。特に第4部「激闘に叫ぶ愛」のクライマックスで展開されるMS戦はアイディアもボリュームも素晴らしく、富野由悠季監督が今なおロボットアニメのフロントランナーであることを十二分に見せつけてくれます。
もう一点、これはちょっと説明しにくいのですが、登場人物たちの「身体性」にあります。パイロットスーツのファスナーを閉じるのに難儀したり、戦闘が長引いたためにインナーを着替えたりと言った描写が相次ぐほか、特にアイーダなどは「とても健康的な女性である」ということが視覚的にも伝わるキャラクターデザインをしているのが最たるものでしょう。だからこそ物語の後半で登場する、人類が宇宙へ進出したことで身体的にも変容を遂げた「ムタチオン」という人々の存在が際立つのです。
また、この「身体性」、TVシリーズではCM前後のアイキャッチで主要人物たちがそれぞれ個性的な動きでダンスをする短いアニメが挿入されましたが、極めてプリミティブな生命力の発露ともいえるこのシーンをエンドクレジットで採用した部もあり、「身体性」を象徴するショットと言えるでしょう。思えば富野由悠季監督はずっとセックスや裸の肉体という生々しいところまで踏み込んだ「生命力の発露」を描き続けてきた方です。今作でも数え切れないほどこれを示唆する描写が登場するのでご鑑賞の際は意識して観てみると良いでしょう。
何より、「老害」という言葉さえ何のそので世の10代の少年少女たちへ向けて本気で作品を作ろうとするその姿勢はちょっと尊敬します。しかもこれより20年前に製作された「∀ガンダム」よりある意味で軽やかな語り口をしていることにも驚かされます。時代のテンポにあった作品とは言い難い部分は確かにある。ありますが、こういう作品から得られるものも少なくないはず。TVシリーズで挫けた人も、分かりにくいなどと言わずに観てみて欲しいですね。
いや~使ってみたらビビるほど快適。これ程の威力があるものだとは。なるほど夏場は手放せそうにないわ。
こんばんは、小島@監督です。
ま、そうは言っても元々が汗っかきなので汗ダルマになる運命からは逃れられなかったんですがね…(苦笑)
さて、今回の映画は「Gのレコンギスタ」です。
科学技術が頂点を極めながらも、宇宙戦争が繰り返され人類が滅亡の危機に陥った「宇宙世紀」が終焉を迎えて1,000年以上の時が流れ、「リギルド・センチュリー」と呼ばれる新たな世紀を迎えるに至った世界。前世紀の遺物たる「キャピタル・タワー」は、宇宙よりエネルギー源「フォトン・バッテリー」を地球に供給する唯一の経路として、キャピタル・タワーの地球側基地は「キャピタル・テリトリィ」と呼ばれて神聖視されていた。
宇宙世紀時代の技術は禁忌とされ封印されていたが、アメリアとゴンドワンの二大国は緊張状態が沸点に達し大陸間戦争が勃発するに至り、封印された技術の復元を始めてしまう。
そんな折、宇宙から所属不明のモビルスーツがキャピタル・テリトリィに降下してくる。キャピタル・テリトリィの自衛組織「キャピタル・ガード」の候補生ベルリ・ゼナム(声・石井マーク)は、モビルスーツから降り立った少女アイーダ・スルガン(声・嶋村侑)と運命の出逢いを果たすのだった。
齢80を超え「巨匠」と呼ばれる領域に達していながら「鬼滅の刃」や「エヴァンゲリオン」など時代の寵児となった作品に対抗意識を燃やす、創作意欲の塊のような御大、富野由悠季監督が、2014年に放送されたTVシリーズ「Gのレコンギスタ」を5部作という破格の構成で再構成され、2019年より順次公開されていきましたが、完結編に当たる第5部「死線を超えて」が先日遂に公開されました。
特徴的なセリフ回しや絵コンテのキレと言い、富野由悠季ならではの語り口が全5部通して炸裂しているシリーズです。ナレーションを排し、場面や用語の説明は最低限にして物語が進むため、一見するとかなり分かりにくく感じる方も多いでしょう。
戦闘の様相も、基本的には国家間の闘争だった「機動戦士ガンダム」や、異なる文化圏同士の相克を描いた「∀ガンダム」のような富野由悠季監督の過去作品と違い、フォトン・バッテリーや封印された技術を巡るいわば「利権争い」であり、そこに国家的なイデオロギーは介在しているもののどの陣営からも離反者を出してしまい、そんな人たちが寄り集まった海賊「メガファウナ」という勢力(アイーダはもちろんベルリもここに属することになる)も登場し、最終的には四つ巴のような状況になるので実相はかなり複雑です。ですがそれを明瞭にしてくれるような解説は作中ではなされません。ただTVシリーズと違うのは物語の軸足をベルリとアイーダの旅路にフォーカスし続けるので少なくとも「どこを観れば良いか」という点についてのみガイドがあるようにできている点にあるでしょう。
一方で、TVシリーズ以上に強調されている点が2つあります。1つはモビルスーツ戦。特に第4部「激闘に叫ぶ愛」のクライマックスで展開されるMS戦はアイディアもボリュームも素晴らしく、富野由悠季監督が今なおロボットアニメのフロントランナーであることを十二分に見せつけてくれます。
もう一点、これはちょっと説明しにくいのですが、登場人物たちの「身体性」にあります。パイロットスーツのファスナーを閉じるのに難儀したり、戦闘が長引いたためにインナーを着替えたりと言った描写が相次ぐほか、特にアイーダなどは「とても健康的な女性である」ということが視覚的にも伝わるキャラクターデザインをしているのが最たるものでしょう。だからこそ物語の後半で登場する、人類が宇宙へ進出したことで身体的にも変容を遂げた「ムタチオン」という人々の存在が際立つのです。
また、この「身体性」、TVシリーズではCM前後のアイキャッチで主要人物たちがそれぞれ個性的な動きでダンスをする短いアニメが挿入されましたが、極めてプリミティブな生命力の発露ともいえるこのシーンをエンドクレジットで採用した部もあり、「身体性」を象徴するショットと言えるでしょう。思えば富野由悠季監督はずっとセックスや裸の肉体という生々しいところまで踏み込んだ「生命力の発露」を描き続けてきた方です。今作でも数え切れないほどこれを示唆する描写が登場するのでご鑑賞の際は意識して観てみると良いでしょう。
何より、「老害」という言葉さえ何のそので世の10代の少年少女たちへ向けて本気で作品を作ろうとするその姿勢はちょっと尊敬します。しかもこれより20年前に製作された「∀ガンダム」よりある意味で軽やかな語り口をしていることにも驚かされます。時代のテンポにあった作品とは言い難い部分は確かにある。ありますが、こういう作品から得られるものも少なくないはず。TVシリーズで挫けた人も、分かりにくいなどと言わずに観てみて欲しいですね。
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