春アニメもそろそろ佳境を迎えつつあるところですが、今期個人的にとても新鮮な気持ちで楽しんでる作品があります。主舞台が岐阜県多治見市である「やくならマグカップも」です。多治見市は単純に自分の通勤途上であり、また亡父が闘病生活を送っていた頃、多治見市の病院に入院しており一時期毎日のように見舞いなどで通っていたため結構馴染みがある場所です。良く知ってる場所がアニメの「聖地」として全国放送されている、という状況がこれほど楽しいものだとは思ってもいず、何だか毎回ウキウキしながら観ています。
こんばんは、小島@監督です。
その内ブラブラ散歩しに行こう、何たって定期券の範囲で行けるしね(笑)!
さて、今回の映画は「緑の牢獄」です。
沖縄、西表島。沖縄県で第二の大きさを誇るその島にはかつて炭鉱があった。今は廃鉱となりそこは無秩序な緑に覆われている。そこからほど近いところに老婆が暮らしている。その老婆・橋間良子さんは台湾で生まれ、10歳で父と共に西表島に連れてこられた彼女は、それからの80年のほとんどをこの島で過ごし、今はたった一人で家を守っている。眠れない夜には炭鉱での暗い過去、忘れたくても消えない記憶が彼女を襲う。人生の晩年に、彼女がカメラに向けて語る想いとは。
筑豊炭田や三池炭鉱など九州には名高い炭鉱が多く存在していましたが、西表島にあったという炭鉱はそれほど深く知られてはいないように思います。私もそれがあったことくらいしか知りませんでしたし、この映画を観ようとしたきっかけもそもそも「期限が近い無料券があったから休みの日に時間が合うものを観てきた」だけで特に直前までマークもしていなかった作品です。でもそう言ったところにこそ思わぬ出会いもあったりするもの。
1930年代に最盛期を迎えていたという西表炭鉱は、しかし離島という土地柄から労働者の大半は島外から集められました。日本各地からだけでなく台湾や中国などから実情も知らされずに連れてこられた人々も多くいました。いわゆる「タコ部屋労働」を強いられた者も多くおり、中には薬物中毒にされた者もいたようです。離島という逃げ場の無いロケーションも手伝い、そこはまさに「牢獄」とも呼べる状況だったことは想像に難くありません。戦前・戦中史の中においても忘却の彼方へ追いやられようとしている歴史を、一人の老婆を通してフィルムに刻み付ける試み、それがこの映画「緑の牢獄」です。
監督は台湾出身の映画人・黄インイク。これがまだ長編2作目ですが丹念なフィールドワークの成果とも言えるこの作品は企画段階から注目され、ベルリン国際映画祭などで入選を果たしています。
うるさいくらいのセミの声やマングローブの深緑に覆われた廃校、亜熱帯の暑さをダイレクトに伝えるような画の中に佇む良子さんの姿を、映画は丁寧に綴っていきます。その顔に深く刻まれたシワやシミに長い島暮らしの哀歓が見て取れ、どこか取り留めないように見える語りの内容もさることながら、流暢な台湾語と沖縄なまりの日本語が垣根無く入り混じるその口調それ自体に、その向こうに重い歴史が横たわっているのがくみ取れます。島民の誰かと語っている時はともかく何がしか独白する時は2つの言葉が境目なく出てくるためか、良子さんの言葉には全て字幕を用意してくれているのが助かります。
この映画に対する感想をより複雑なものにしている要素が2つあります。一つは撮影開始後に良子さんの家の離れに下宿を始めたというアメリカ人青年・ルイスの存在です。ルイスは良子さんと独特の距離感を保っていますが映画も後半に入るとこの関係性、というよりルイスと集落の住民との関係性に変化が訪れます。その変化の様に「離島」という閉塞的な空間の狭隘さを見て取ることができますが、敢えてこういうものをオミットしなかった監督のセンスが見事です。
もう一つは映画後半から登場するフィクションの映像です。それは不意に現れます。良子さんの語る記憶をより「記憶」として刻み付けようというものでしょうか。ドキュメンタリー映画ながらユニークなアプローチです。とは言え人によっては感情を誘導されているようで反目を覚える箇所かもしれません。また、黄インイク監督はこの際に撮影したフィクションパートで構成した「草原の焔」という短編映画を「緑の牢獄」と同時に発表しています。
時の流れの中に埋もれようとしている歴史に、それに真摯に向き合った者にだけなしうる方法で映像として刻み込まれた、そういう「熱さ」を宿した映画です。全くノーマークで観に行った作品でしたが思いもかけず心を揺さぶられました。ミニシアターだからこそ出会える作品ともいえるでしょう。映画への逆風が止まない昨今ですが、こういうのが上映される素地と体力は残り続けていて欲しいですね。
こんばんは、小島@監督です。
その内ブラブラ散歩しに行こう、何たって定期券の範囲で行けるしね(笑)!
さて、今回の映画は「緑の牢獄」です。
沖縄、西表島。沖縄県で第二の大きさを誇るその島にはかつて炭鉱があった。今は廃鉱となりそこは無秩序な緑に覆われている。そこからほど近いところに老婆が暮らしている。その老婆・橋間良子さんは台湾で生まれ、10歳で父と共に西表島に連れてこられた彼女は、それからの80年のほとんどをこの島で過ごし、今はたった一人で家を守っている。眠れない夜には炭鉱での暗い過去、忘れたくても消えない記憶が彼女を襲う。人生の晩年に、彼女がカメラに向けて語る想いとは。
筑豊炭田や三池炭鉱など九州には名高い炭鉱が多く存在していましたが、西表島にあったという炭鉱はそれほど深く知られてはいないように思います。私もそれがあったことくらいしか知りませんでしたし、この映画を観ようとしたきっかけもそもそも「期限が近い無料券があったから休みの日に時間が合うものを観てきた」だけで特に直前までマークもしていなかった作品です。でもそう言ったところにこそ思わぬ出会いもあったりするもの。
1930年代に最盛期を迎えていたという西表炭鉱は、しかし離島という土地柄から労働者の大半は島外から集められました。日本各地からだけでなく台湾や中国などから実情も知らされずに連れてこられた人々も多くいました。いわゆる「タコ部屋労働」を強いられた者も多くおり、中には薬物中毒にされた者もいたようです。離島という逃げ場の無いロケーションも手伝い、そこはまさに「牢獄」とも呼べる状況だったことは想像に難くありません。戦前・戦中史の中においても忘却の彼方へ追いやられようとしている歴史を、一人の老婆を通してフィルムに刻み付ける試み、それがこの映画「緑の牢獄」です。
監督は台湾出身の映画人・黄インイク。これがまだ長編2作目ですが丹念なフィールドワークの成果とも言えるこの作品は企画段階から注目され、ベルリン国際映画祭などで入選を果たしています。
うるさいくらいのセミの声やマングローブの深緑に覆われた廃校、亜熱帯の暑さをダイレクトに伝えるような画の中に佇む良子さんの姿を、映画は丁寧に綴っていきます。その顔に深く刻まれたシワやシミに長い島暮らしの哀歓が見て取れ、どこか取り留めないように見える語りの内容もさることながら、流暢な台湾語と沖縄なまりの日本語が垣根無く入り混じるその口調それ自体に、その向こうに重い歴史が横たわっているのがくみ取れます。島民の誰かと語っている時はともかく何がしか独白する時は2つの言葉が境目なく出てくるためか、良子さんの言葉には全て字幕を用意してくれているのが助かります。
この映画に対する感想をより複雑なものにしている要素が2つあります。一つは撮影開始後に良子さんの家の離れに下宿を始めたというアメリカ人青年・ルイスの存在です。ルイスは良子さんと独特の距離感を保っていますが映画も後半に入るとこの関係性、というよりルイスと集落の住民との関係性に変化が訪れます。その変化の様に「離島」という閉塞的な空間の狭隘さを見て取ることができますが、敢えてこういうものをオミットしなかった監督のセンスが見事です。
もう一つは映画後半から登場するフィクションの映像です。それは不意に現れます。良子さんの語る記憶をより「記憶」として刻み付けようというものでしょうか。ドキュメンタリー映画ながらユニークなアプローチです。とは言え人によっては感情を誘導されているようで反目を覚える箇所かもしれません。また、黄インイク監督はこの際に撮影したフィクションパートで構成した「草原の焔」という短編映画を「緑の牢獄」と同時に発表しています。
時の流れの中に埋もれようとしている歴史に、それに真摯に向き合った者にだけなしうる方法で映像として刻み込まれた、そういう「熱さ」を宿した映画です。全くノーマークで観に行った作品でしたが思いもかけず心を揺さぶられました。ミニシアターだからこそ出会える作品ともいえるでしょう。映画への逆風が止まない昨今ですが、こういうのが上映される素地と体力は残り続けていて欲しいですね。
PR
この記事にコメントする