ちゅうカラぶろぐ


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何故か梅雨明けしてから連日のように強い夕立が降るのでここ1か月近く毎週1~2回は電車が止まって帰宅するのが遅くなる、最悪ホテルで1泊するという日々が続いています。良いか悪いかこちらも段々慣れてきてしまい「夕食どこで食べよう」とか「多分これくらいの時間までには帰れるだろうからあとどれくらい時間的余裕がある」とか考えていたりします。何の気無しに職場の同僚にそんな話をしたら「いや、それはたくまし過ぎる」と突っ込まれました(苦笑)

 こんばんは、小島@監督です。
 とは言え、こういうのは一番疲れない方法を取るか待ち時間をいかに楽しく過ごすかしかないのですよ。

 で、今日のネタもそうやって電車待ちの間に観た1本。今回の映画は「ファンタスティック・プラネット」です。

 地球ではないどこかの惑星・イガム、そこでは真っ青な肌に赤い目をした巨人・ドラーグ族が文明社会を築き、小さな人類・オム族は原始的な生活を強いられ、ドラーグ族によってある者は虫けらのように踏み潰され、ある者はペットとして飼育されていた。ドラーグ族はオム族の持つ知性に脅威を感じており、議会ではオム族絶滅を図る強硬派と共存を図る穏健派とで意見が対立していた。
 ある日、オム族の母子がドラーグ族の子供たちの悪戯の対象になり、その結果母親は死んでしまい、赤ん坊だけが取り残された。その様を見ていたドラーグ族の少女ティバは残された赤ん坊を拾い、「テール」と名付けペットとして飼うことを決める。ティバは「学習器」という、脳に直接知識を取り込む機械で教育を受ける際、いつもテールを手のひらに乗せていた。その結果、テールも驚異的なスピードで言語や知識を習得していった…

 1973年にフランスとチェコスロヴァキアの合作で製作されたアニメーション映画です。幻想的な画風のアーティスト・ローラン・トポールが4年間かけて原画デッサンを描き、それを映像作家ルネ・ラルーが切り絵アニメーションでもって映像化した作品です。当時から高い評価を得、アニメーション映画としては初めてカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞しました。後続のクリエイターに多大な影響を与えたと言われ、日本でも宮崎駿が特に「風の谷のナウシカ」でその影響が見受けられると言われています。最近になってデジタルリマスター化され、それを受けて現在各地のミニシアターで巡回上映がされています。前から一度観てみたいと思ってましたが、ようやくそれを実現できました。

 正直言ってどう説明したらいいものか、うまい言葉が見つからないくらい独創性の塊のような映像です。1日の大半を瞑想して過ごし、瞑想中は体の形が自由に変わっていくドラーグ族の生態を始め、生物もメカもどれもがシュール。ジャズピアニストであるアラン・ゴラゲールの手掛けた電子音主体の音楽も相まって唯一無二の世界観が展開します。

 物語の方も一見して相当にブッ飛んでいますが、2つの生物と社会の対立と闘争とそれがもたらす変化のありさまは実にSFらしい風刺と批評精神に富んでいます。オム族をおもちゃのように扱い虐げながら一方で脅威を感じてもいるドラーグ族と、そのドラーグ族に怯えて暮らしながら同時に憎悪を募らせてもいるオム族、その狭間にドラーグ族の知識を得たテールがおり、彼の存在が恐らく長く変わらなかったであろう両者の関係に大きな変化をもたらすことになります。作中では明確な結末が用意されている対立の構図ですが、本来は簡単な答えの出ない類のものでしょう。これをどう見るかは、観客の想像力に委ねられています。

 半世紀の時を経てなお「斬新」と思わせられるその世界観、「比類無い」とはまさにこのこと。普段目にする日本のアニメとは根本的に作りが違うのとヒエロニムス・ボスやサルバドール・ダリを思い起こさせるシュールレアリスム全開のビジュアルで抵抗感を覚える人も多そうですが、絶対的に他の何とも似ていない映像体験となる1本でしょう。
 名古屋ではシネマテークで8月13日までの上映。百聞は一見に如かず、この機会に是非ご体験あれ。

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開催自体が危ぶまれた東京五輪が何だかんだありながらどうにか開幕しました。開会式の選手団入場でゲームミュージックをかける趣向がオタク的にストライク。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーは鉄板としてもクロノ・トリガーやエースコンバットとかかなりガチ目の選曲が熱く、そこだけつい真面目に観てしまいました。

 こんばんは、小島@監督です。
 競技の方で言うと何気なく見始めたスケートボードが結構面白く、予選から決勝まで割としっかり観てしまいました。ええ、堀米選手金メダル獲得の瞬間もしっかりと。始まってしまった以上楽しめるものは楽しむのです。

 さて、今回の映画は「アメリカン・ユートピア」です。

 1977年にデビューした「トーキング・ヘッズ」のフロントマンであったデイヴィッド・バーン、バンドは1991年に解散しましたがその後も多数のソロアルバムやブライアン・イーノ、ファットボーイ・スリムなどとのコラボレーションなどで評価を集め、グラミー賞受賞歴の他、映画「ラストエンペラー」(1987年製作)の劇判を坂本龍一と共作してアカデミー賞を受賞したこともあるロックシーンのトップランナーです。そのデイヴィッド・バーンが2018年に発表したアルバム「アメリカン・ユートピア」をベースに、ワールドツアーを経た後ブロードウェイ・ショーとして再構築した舞台を上演、それを「マルコムX」(1992年)や「ブラック・クランズマン」(2018年)などで知られるスパイク・リーの手によりドキュメンタリー映画化したのがこの作品です。
 
 一見すると舞台は三方をすだれ状に加工したチェーンをカーテンにして下げているだけ、という極めてシンプルなスタイル。開幕はデイヴィッド・バーンのソロから入り、曲が進むに従いバックダンサーやバンドメンバーがカーテンをくぐって登場していきます。面白いのは「人の動きに制限をかけたくない」というデイヴィッド・バーンの意向に沿って、バンドメンバーがギターやベースだけでなくパーカッションやキーボードまでも全てケーブルレスで登場して演奏している点。更に言えば全員裸足。ダンサーだけでなくバンドメンバーも目まぐるしくポジションを変えて縦横無尽にステージ上を動くさまをスパイク・リーは時に天井からのカメラも駆使して捉えていきます。
 
 披露される楽曲はトーキング・ヘッズ時代の物も含め21曲。
 開幕の「Here」では「赤ん坊の神経細胞は実は大人よりも多く、成長するにつれて減っていく」と語り掛け、そこからパフォーマンスで圧倒し、軽妙なトークで笑わせながら楽曲のチョイスやリリックでもって観客に対しメッセージを送ります。
 舞台が上演されていたのは2019年、そう、大統領選挙が行われる前年であるところが重要です。「ブラック・ライブズ・マター」運動をご記憶の方も多いことでしょう。選挙人登録を観客に促しつつ、分断を煽るトランプ政権への痛烈な批判と皮肉と共に「失われた神経細胞」、すなわち多様な人間との繋がりを取り戻そうと語り掛けるのです。見事なまでに構築されたショーアップの向こう側に「このままでは本当にバラバラになってしまう」という危機感が見えます。デイヴィッド・バーン自体スコットランドからの移民であるが故にアメリカに「理想郷」を見続けたい想いがあるのでしょう。

 と、小難しいことを考えもせずとも、この怒涛のパフォーマンス・ラッシュがもたらすグルーヴ感、歌って踊れて喋りまで面白い70近いお爺ちゃんことデイヴィッド・バーンのキレッキレのパフォーマンスを観てるだけでも滅茶苦茶に面白いのが何よりこの映画の魅力。この圧巻とも言うべき音楽の奔流はライブに飢えに飢えてた自分に強烈な一撃を食らわせていきました。
 上映館が少ないのが残念ですし、名古屋での上映ももう残りわずかとなっているようですが、これは是非多くの方に観て欲しい逸品。
 特にライブに渇望している方!そう!そこのあなた!こいつを食ってみな!飛ぶぞ。

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先日、打つと「Wi-Fiが繋がる」だの「磁力が発生する」だのいろんなことを言う人たちがいる新型コロナウィルスのワクチンを接種してきました。今回が1回目。翌日打った側の腕がずっと重いというか鈍い痛みが続いて腕を伸ばしたり挙げたりすると「う”っ」となります。打った翌日普通に出勤していたのですが、力仕事するセクションでなくて良かったと思いましたね(苦笑)

 こんばんは、小島@監督です。
 実は2回目の接種日ももう決まっていて、2回目は打った後に発熱する可能性も高いと聞いたので接種日と翌日も休みを取って万全の態勢で臨む所存。

 さて、今回の映画は「るろうに剣心最終章 The beginning」です。

 1864年、動乱の最中の京都。時代を護るか変えるか、刀を持つ者は2派に分かれ争っていた。長州の奇兵隊に入隊した緋村剣心(佐藤健)は桂小五郎(高橋一生)に剣の才を見込まれ最強の暗殺者として暗躍し、幕府側から「人斬り抜刀斎」と恐れられるようになった。
 ある夜、いつものように幕府の役人暗殺の指令を受けた剣心は清里明良(窪田正孝)の執念に気圧され左頬に一太刀を受けてしまう。
 しばらく後、剣心は酒場で浪士に絡まれている女を助ける。店を出たところを刺客に襲われた剣心は、その刺客を返り討ちにするがその様を酒場で助けた女に見られてしまった。
「人が殺される様を『血の雨が降る』と言いますけれど、貴方は本当に血の雨を降らすのですね…」
 女はそう言った。女の名は雪代巴(有村架純)。それは剣心にとって運命的な出会いであった。
 
 実は先月の内に観ていたのですが、いろいろ語りたいタイトルが多くて気付けばちょっと後回しにし過ぎました(苦笑)。ロングランが続いているとはいえ夏向けの新作が今週から続々と封切りされ、このままでは語る機会を完全に見失いそうだったので今回は敢えてコレで行きます。

 大友啓史監督、主演佐藤健による実写版「るろうに剣心」のシリーズ5作目にして最終作となる今作は、「The beginning」と題し緋村抜刀斎が如何にして左頬に十字傷を負い「不殺」の誓いを立てるに至ったか、という原作の「追憶編」に当たる部分を描きます。
 連続公開という形を取った「るろうに剣心最終章」のこの2部作、先んじて公開された「The final」ではシリーズを彩ったキャラクターが総登場して絢爛なアクションを展開するエンターテインメントに特化した作りだったのに対して、この「The beginning」では人間の情念と機微を彩度の低いダークな色調で描き上げます。相対的にアクションシーンのウェイトが少ない作りになっているものの、要所要所で鋭いアクションを見せてくれ、しかも剣心が不殺の誓いを立てる前なので過去作よりも決定的に「殺意」の純度が高いのも特徴と言えるでしょう。

 基本的なストーリーラインは原作にほぼ忠実に作られているものの、原作コミックではまだダークな中にもクスっと笑えるコミカルなシーンがアクセントとして差し挟まれていたりしたのですが、一切それをしないストイックな語り口は傑作と誉れ高いアニメ版の「追憶編」に近い雰囲気です。
 またこのアニメ版「追憶編」、製作サイドも意識していたのでしょう、「原作にはないけどアニメ版にはある」セリフを喋る人物が作中登場します。エンドクレジットに「製作協力」としてアニメ版の脚本を手掛けた十川誠志氏がクレジットされていたので意識的にそうしていると思われ、それが功を奏してより人物造形に深みが増しています。

 加えてこの映画、もう1点語らずにはいられないのが雪代巴役の有村架純。原作そのままの可憐な佇まいには惚れ惚れとせざるを得ません。もう絶品。それこそ「御飯が何杯でも行けてしまう」レベルでこれはもう是非ご覧になって確かめて頂きたい。

 シリーズ最終作という性格上、この作品を以て過去作の数々のシーンに「意味」が生まれる様にできているだけでなく、「原点」を描いている故にこの作品を出発点にするのも良し、というなかなかに優れた作品になっています。2010年代の邦画を代表するタイトルの一つとなったと言っていい「るろうに剣心」が最後の到達点を、どうぞ目に焼き付けて頂きたいですね。

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何か悪い物でも食べてしまったのかあるいは疲れでも溜まってたのか唐突に体調を崩してしまい、昨日は1日アマプラで映画をただ垂れ流しながらひたすら寝て過ごしてました。
 こんなに寝たのもちょっと久しぶり。

 こんばんは、小島@監督です。
 幸い明けて今日はすっかり回復して事なきを得ました。変に拗らせるようなヤツじゃなくてホッとしています。

 さて、今回の映画は「ブラック・ウィドウ」です。

 「シビル・ウォー」の後、瓦解したアベンジャーズ。「ブラック・ウィドウ」と呼ばれるナターシャ(スカーレット・ヨハンソン)はソコヴィア協定違反を問われ追われる身となっていた。ノルウェーに潜伏したナターシャは協力者であるメイソン(O・T・ファングベル)から以前の隠れ家に残してあった私物を受け取る。
 その夜、ナターシャは突如謎の暗殺者「タスク・マスター」の襲撃を受ける。苦戦するナターシャだがそのさなかにタスク・マスターの狙いがメイソンから渡された荷物にあることに気づき、隙を突いて局面を脱することに成功した。
 謎の答えを求めてナターシャはブダペストに赴く。隠れ家として利用していたアパートに着くと、そこにはかつて姉妹として共に生活していたエレーナ(フローレンス・ピュー)がいた。

 「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」から2年ぶりに「マーベル・シネマティック・ユニバース」がスクリーンに帰ってきました。最初の緊急事態宣言が明けた昨年5~7月頃、一時休館から明けたもののまともに新作の出揃わない中でMCUの旧作が一部リバイバル上映されていたこともあったのでこの2年間全く上映されなかったわけではないのですが、長く大作映画の顔でもあったMCUの新作の公開は、まさに「待望の」と言って差し支えないでしょう。
 
 公開時期に大きく間が空いてしまいましたが、先の「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」が「アベンジャーズ/エンドゲーム」のエピローグかつ新たなフェイズのプロローグを担っていたのに対し、今回の「ブラック・ウィドウ」は時系列的には「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」の後で「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の前、という位置付けで一種のスピンオフ映画のような印象を受けます。
 MCUのシリーズの中でかなり初期から登場していながら恐らく意図的にキャラクターを断片的にしか掘り下げてこなかったブラック・ウィドウをメインに据え、タフにして繊細なナターシャの根底を描きます。

 一種のスパイアクション的な物語の構図の中で描かれるのは「アベンジャーズ」と、かつて「潜入任務」として共に暮らしたアレクセイ(デヴィット・ハーパー)、メリーナ(レイチェル・ワイズ)、エレーナとの「疑似家族」、この2つを心の底で自分の「ファミリー」だと感じるナターシャの心の動きです。この映画を撮るにあたり抜擢されたのがオーストラリアの女流監督ケイト・ショートランドという人選が活き、派手なアクションを見せる一方で情感の描写が光る作品になりました。
 この疑似家族のキャラクターの立ちっぷりが素晴らしく、中でもブラック・ウィドウ独特の着地ポーズをくさしてみせるエレーナのくだりが最高。今後MCUの過去作品を観返したりしたらブラック・ウィドウがあのポーズ取る度に笑ってしまいそうです。

 時にコミカルに、時にエモーショナルに、そしてダイナミックに。王道とも言える娯楽作品で是非多くの方に観て欲しい1本。マーベルというか、ディズニーが昨年以降急速に配信主体に舵を切ってしまっており、「101」のヴィランを主役にした「クルエラ」もかなり小さい規模での公開となったほかアニメ映画「ソウルフル・ワールド」に至っては劇場公開すらされないという中でこの「ブラック・ウィドウ」も当初予定より公開規模が縮小されてしまっているのが現実ですが、こういう作品こそスクリーンで観る醍醐味に満ちていると思うので、できればなるたけ縮小はしないで欲しいですね。
 


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「何か席がまだ空いてたから」というのが一番の理由でしたが、昨日「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」の舞台挨拶LV付上映に行ってきました。「上田麗奈が見たかっただけじゃないの?」と言われたら否定はしませんがね!村瀬修功監督が音響へのこだわりなどを語っていたり封切り前にハサウェイ役小野賢章がバラエティー番組で激辛料理を食べていたのを踏まえて次作ではギギ役上田麗奈やケネス役諏訪部順一が番宣で体張ることになりそうとおどけたりと30分余りがあっという間に過ぎていきました。そう言えば、ライブビューイングとは言え舞台挨拶なんてのを見るのも久しぶり。

 こんばんは、小島@監督です。
 次はライブビューイングじゃなくて本会場で舞台挨拶観たいものです。

 さて、今回の映画は「ゴジラvsコング」です。

 ゴジラとギドラが死闘を繰り広げてから3年後、髑髏島にあるモナーク基地ではゴジラの太古からの宿敵であるコングの存在をゴジラから隠すため、島の環境を再現したドームにコングを収容していた。しかし、コングの体長は100mを超え、最早ドームには収容できなくなりつつあった。コングと心を通わせられる少女ジア(ケイリー・ホトル)と、孤児であるジアを養子とした言語学者アイリーン・アンドリュース(レベッカ・ホール)は日々ストレスを募らせるコングの様子を心配そうに見つめていた。
 一方、アメリカでは巨大企業エイペックス・サイバネティクス社が何か陰謀を企んでいるに違いないとバーニー・ヘイズ(ブライアン・タイリー・ヘンリー)は技師として潜入し、その調査の様子をネットで放送を続けていた。ある時、3年の沈黙を破りゴジラが出現、エイペックス社を襲撃した。破壊された社内でバーニーは異様な姿の謎めいた機械を発見する。

 1962年に製作された、日米が生んだモンスターの2大巨頭が激突した「キングコング対ゴジラ」は、後に「怪獣プロレス」と呼称されることになるスタイルが本格的に確立した作品としてその名を残しています。それから60年、今度はハリウッドの超大作映画として再戦の時がやってきました。2014年製作の「GODZILLA」から始まる、ワーナーブラザーズとレジェンダリー・ピクチャーズ、東宝が提携したクロスオーバー・プロジェクト「モンスターバース」の4作目かつ一つの到達点として遂にゴジラとキングコングの頂上決戦が描かれる作品の登場です。本来なら昨年の公開予定でしたがこちらもご多分に漏れずコロナ禍で度重なる延期を余儀なくされ世界各国に大きく遅れて先日ようやく封切りとなりました。これまでの3作品で主軸に描かれた2大スターのタイマンバトルというクライマックスに相応しいイベント性の高い作品に仕上がっています。

 結構凝った設定や構成をしている割にはスピーディーにそれらを畳み掛けて「人間が主役になり切らない」ようにして巨大モンスターのキャラクターを前面に出す「モンスターバース」の作風を踏襲しつつ、圧倒的なスケール感でモンスターバトルの極地を描きます。
 恐らく人間ドラマな部分は撮るだけ撮って編集段階でかなりカットしてるんじゃないかと思いますが、結果的にスピード感は増しているものの展開はかなり大味な話になっています。いますが、その大味ぶりが良いというか雑な割には何だかワクワクしてしまったというか。また作中で登場するメカのデザインのダサカッコ良さ具合も絶妙で、個人的には丁度直撃だった1989年製作の「ゴジラVSビオランテ」から1995年の「ゴジラVSデストロイア」まで続いたいわゆる「VSシリーズ」と似た匂いを嗅ぎ取ってすっかり楽しめてしまいました。

 そのゴジラとコングのバトルシーンも最初の海上戦闘から終盤の都市部での夜間戦闘まで凝ったアイディアと演出の宝庫。スーツアクション主体だった日本では思いついてもやれなかったであろうアクションもバンバン登場しますし、「モンスターバース」はシリーズを通して巨大怪獣の「巨大感」を徹底して意識した画作りをしているのがここでも活かされており、スクリーンを全面使った濃い画面が頻発するのが心底楽しいです。

 もう一つ、意外な拾い物として物語のキーパーソンとして登場する少女ジア役ケイリー・ホトルの演技があります。何とこれが長編映画初出演。聴覚障害者で手話を以てコングと会話するジアと同様ケイリー・ホトル自身も聴覚障害者だそうで、聴覚障害者コミュニティへの関心を高めてもらうために活動している人物でもあり先々の活躍が楽しみです。

 人によっては「スクリーンを全面使いきる」タイプのスペクタクル映画からかなり離れてしまっている方もいるんじゃないかと思います。物語こそ馬鹿馬鹿しいくらいですが、このスケール感はやはり映画館でこそ。自宅で観るのでは絶対に味わえない迫力をどうぞご堪能いただきたいですね。


 
 

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一昨日、先月開催しながら1か月の期間を置いてようやくアーカイブ配信が始まった「アイドルマスターミリオンライブ7thLIVE」の映像を肴に数人で酒や食べ物を持ち寄って酒盛りしてました。こういうことから長く遠ざかっていたのでとても久しぶりに感じます。ライブの方も2Daysの初日の方は仕事で観れずじまいで「ぐぬぬ…」となっていたところだったので観れて何よりでした。

 こんばんは、小島@監督です。
 気楽にこういうことをできる日々が戻ってくると良いのですが。

 さて、今回の映画は「映画大好きポンポさん」です。

 映画の都ニャリウッド。そこで敏腕プロデューサーであるジョエル・ダヴィドビッチ・ポンポネット、通称「ポンポさん」(声・小原好美)の下でジーン・フィニ(声・清水尋也)はアシスタントを務めていた。映画監督を夢見ているジーンだったが、根暗な自分の性格では無理と諦めていた。そんなジーンにある日ポンポさんは新作映画のCM製作を担当させる。突然のことに驚くジーンだったがジーンは次第に作業に没頭していく。完成したCMの出来栄えに満足したポンポさんは、今度はベテラン俳優マーティン・ブラドック(声・大塚明夫)10年ぶりの主演作の監督にジーンを抜擢するのだった。

 映画自体を題材にした映画は古くからあり、早い物では1920年代には映写技師を主人公に据えた「キートンの探偵学入門」という作品が登場しています。1952年にはサイレントからトーキーに移行しつつあるハリウッドを舞台にしたミュージカル「雨に唄えば」や1989年にはシチリア島の映画館を舞台にした「ニュー・シネマ・パラダイス」と言った名作が誕生している一方で、撮影助手を務める青年の異常な性癖を描く「血を吸うカメラ」(1960年)や、近年でもゾンビ映画製作現場のドタバタを描く「カメラを止めるな!」が話題になったりと怪作にも事欠きません。
 この映画の原作コミック「映画大好きポンポさん」は、原作者杉谷庄吾が2017年にWEBで無料公開したのをきっかけに、その後書籍化された経緯を持つ作品です。近年Twitterなどで公開しその反響を契機としてその後雑誌連載、書籍化、あるいは映像化という流れに至る作品が相次いでいますがこの「ポンポさん」もそういう系譜の中にある作品です。映画を題材にしている作品の映像化だけあって媒体を映画とするのは当然の帰結とも言えるでしょう。

 この手の作品、特にアニメだと高校や専門学校などを舞台にしていることが多いのですがこの映画ではハリウッドを模した「ニャリウッド」を舞台に実写映画製作の内幕を描きますが、コレは案外かなり珍しい部類に入るのではと思います。
 類まれな才能と豊富な人脈を持ちながら何故か手掛ける映画は90分以内のB級映画ばかりというポンポさんのキャラクターは、「B級映画の帝王」と呼ばれたロジャー・コーマンを彷彿とさせます。そのロジャー・コーマン、低予算で映画を作るためにスタッフや俳優に大学を出たばかりの若者を多数起用したことでも知られており、そうやってキャリアをスタートした人物の中にはジェームズ・キャメロンやマーティン・スコセッシ、ロバート・デ・ニーロやジャック・ニコルソンなど後に一線級で活躍することになる人物が数多くいます。作中のポンポさんもそれに倣ってか根暗な映画オタクのジーンを監督を抜擢したりオーディションに落ちてばかりのナタリー・ウッドワード(声・大谷凛香)を主演に抜擢したりと芽が出ずにいる才能を見出していきます。

 もう一つ、この作品最大の特徴は、映画製作の中において「編集」という部分にかなりの重きを置いている点です。恐らくここをクローズアップしている作品は過去に類を見ないのではないでしょうか。それを象徴するところとして作中にジーンが「ニュー・シネマ・パラダイス」を観るくだりがあります。サラッと流しているシーンなのですがこの映画は編集が持つマジックを体感させてくれる作品で、完全版(173分)とインターナショナル版(123分)で上映時間が実に50分もの違いがあり、映画の構成も変わっているのでまるで印象が変わります。しかも世界的に評価が高いのは時間の短いインターナショナル版の方、というのも面白いところ。この「ポンポさん」を観て興味が湧いた方は是非両バージョンとも見て頂きたい逸品で、編集の奥深さを味わってみて欲しいところです。

 至上命題とも言うべき(何故至上命題かは見てご確認のほどを)上映時間90分にもちゃんと収まっており、狂気にも似た創作のエネルギーをアッパーなテンポで畳み掛ける楽しい作品に仕上がっています。興行成績も好調なようで今週末から上映館が拡大されるとのこと、このピーキーな作品を是非スクリーンで味わって欲しいところ。そしてこれをきっかけに映画に興味を持って頂けるようになると嬉しいですね。

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昨年の秋からこっち、10か月くらいかけて昨日アニメ「銀河英雄伝説」全110話を完走しました。いつかちゃんと観たいと思いながらなかなか実現できずにいましたがようやく達成できました。ありがとうAmazonプライム(笑)完走してようやくこの物語が放つ普遍的な魅力に気づけたという一方、やっぱり10代から大学生くらいの内に履修しておけば良かったとも思ったり。

 こんばんは、小島@監督です。
 まだ余韻に浸り気味とは言え「外伝」全52話も残ってますし原作も未読なのでいろいろ道半ば。もうしばらく堪能できそうです。

 さて、今回の映画は「トゥルーノース」です。

 非営利団体「TED」のスタッフに促され、一人のアジア人男性が緊張の面持ちでステージに立ち、講演会が始まる。
 男は語り始めた。「政治の話はしませんよ、代わりに物語をお伝えします。私の、家族の物語です…」
 1995年、北朝鮮。パク一家はある日突然父が失踪し当局による家宅捜索を受けたのち、母ユリ、長男ヨハン、妹ミヒの3人はトラックで政治犯強制収容所へと連行された。冷徹なハン所長が支配する収容所で過酷な労働を強いられるヨハンたち。ある日ヨハンは、看守にレイプされ妊娠させられた母を理不尽に処刑され孤児となった少年・インスと出会う。

 突然平穏な生活が終わりを告げ、理由もわからぬまま強制収容所へ送られ自由を奪われ、明日をも知れぬ状況へと追いやられる。しかもそれはホラーやサスペンスの導入部というわけではなく海を隔てたすぐ近くの国で今も実際に起こっている。一説には北朝鮮でそうやって政治犯として収容されている人は12万人にも上るそうです。そんなテーマを主軸に描かれたドキュメンタリータッチのアニメーションです。世界を見渡せば、ポル・ポト時代のカンボジアの強制収容所を舞台にした「FUNAN/フナン」や、タリバン政権下のアフガニスタンで抑圧された家族の姿を描く「ブレッドウィナー」など、近現代の破壊や抑圧の歴史を戯画化しアニメ化する試みが近年相次いでいます。こういうことは時として実写よりアニメの方がより多くの人に伝わりやすくなることがあります。

 映画が始まると、恐らく多くの方がそのビジュアルにちょっと驚くのではないでしょうか。実写と見紛う程のリアルな映像もCGアニメで作れるご時世に、妙にパキパキしたというか2000年代初頭くらいのPS2ソフトみたいなローポリゴン調のビジュアルをしているのです。始めは「予算や製作体制の問題なのか?」と思いましたがすぐにそうではないことに気づきます。リアルに近づけてしまえば、あるいは実写でやってしまうと正視に耐え難い状況が次々と描かれるから、敢えて強めのデフォルメをかけたことが分かります。
 
 物語の中心となるのはパク一家の長男・ヨハン。過酷な状況下でも機転で切り抜けようとするヨハンは看守の手足として囚人を監視する立場を得、同時に食料などに便宜を図ってもらえる地位に着きます。が、そのことによる代償も受けることになります。人間の持つ最も善き面と最も悪しき面の狭間でヨハンの人格は形成されていくことになります。それは収容された政治犯たちだけではなくそれを監視する看守ら体制側にも逃れ得ぬ命題であり、作中にはこの狭間で均衡を失っていく青年看守も登場します。
 興味深いことにパク一家は帰還事業(1950~80年代に行われた在日朝鮮人とその家族を北朝鮮へと移住させた事業)によって北朝鮮へ移り住んだ一家であることが示されます。また、作中には日本から誘拐されてきて用済みとなった拉致被害者も登場します。哀しいかな、日本から縁遠い話ではないことを突き付けられてしまうのです。

 北朝鮮という国家自体はその存在を否定している政治犯強制収容所、監督である清水ハン栄治氏は、脱北者たちのインタビューやリサーチを重ね作り上げたこの映画を「告発のための作品」としてではなく「抑止のための作品」として製作したそうです。かつて敗戦間近のナチスドイツで収容所で大虐殺が起きたように、もしも北朝鮮という国から独裁体制が消えた時、あるいは北朝鮮が世界に開かれた時に「無かったこと」にさせないため。だからこそ「政治の話はしませんよ、代わりに物語をお伝えします」という冒頭のセリフが活きてきます。ここまでの想いで作られた映画というのもなかなか無いのではないかと思います。しかも「物語をお伝えします」の言葉通りに、これほどヘビーな題材を扱う作品でありながらエンターテインメントとしても極めて優れた出来栄えをしており、はっきり言って凄まじいエネルギーを感じる映画になっています。

 これぞまさに「今観るべき映画」でしょう。一人でも多くの方に観て欲しいと願うと同時にせめてこの作品が今も収容されている12万人という人たちの希望の光となって欲しいと祈って止みません。

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