こんなご時世でもというか、こういう時だからというか、人と顔つき合わせてゲームがやりたくなり、先日誘いに乗ってアナログゲームを楽しんできました。
そこで初めて「カタン」をプレイ。非常に有名な割に今まで縁が無くルールを教えてもらいながらでしたが、なるほどこれは楽しいですね!やり始めたら一晩中でもプレイする人もいると聞きましたが、それも分かる気がします。
こんばんは、小島@監督です。
また折を見てプレイしてみたいですね。
さて、今回の映画は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」です。
1985年カリフォルニア。ロックとペプシコーラとスケボーを愛する少年マーティ・マクフライ(マイケル・J・フォックス)は親友で科学者のエメット・ブラウン(通称ドク)(クリストファー・ロイド)に、「見せたいものがあるから」と深夜のショッピングモールに呼び出される。モールを訪れたマーティにドクはそこでスポーツカー「デロリアン」を改造したマシンを見せる。
実験としてドクの愛犬アインシュタインを乗せ走り出したデロリアンは時速140㎞に到達した後一度消え、正確に1分後に現れた。ドクは人類初のタイムマシンの開発に成功していたのだ。しかし喜ぶ間もなくタイムマシンの燃料であるプルトニウムをドクに騙し取られたリビアの過激派の襲撃に遭いドクは射殺されてしまった。何とか危地を脱しようとするマーティはデロリアンを疾走させる。その時シフトレバーを操作する際に次元転移装置のスイッチまで入れてしまったマーティは30年前の1955年にタイムスリップしてしまった。そこでマーティは結婚する前の両親と出会う。
2010年より続いてきた、シネコンでクラシックな名画を午前10時に上映するプログラム「午前十時の映画祭」が今月で一旦その幕を下ろします。その最後の上映作品としてチョイスされたのが、今回取り上げる「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作です。TV放送やDVDなどでもう何度も観た事のある作品ですが、今回初めてスクリーンで鑑賞する機会に恵まれました。
1985年に1作目が製作され大ヒットを記録、その後1989年にパート2が、1990年に完結編となるパート3が製作されいずれも大ヒット。ユニバーサルスタジオジャパンにもこれをベースにしたアトラクションが作られるほど人気のタイトルとなりました。監督は「フォレスト・ガンプ」でアカデミー賞を受賞したロバート・ゼメキス、製作総指揮には40年以上トップクリエイターであり続けるスティーブン・スピルバーグと「インディ・ジョーンズ」シリーズや「ジェイソン・ボーン」シリーズを手掛けたフランク・マーシャルと、今から思えばそうそうたる製作陣です。
音楽を担当したアラン・シルヴェストリの手によるテーマ曲、タイムマシンのモデルとして使われたデロリアンDMC-12のフォルムなど全てがあまりに鮮烈。誇張ではなく1980年代後半のアイコンの一つとなった作品と言えるでしょう。主人公マーティがタイムトラベルしてしまう先である1955年、どこかその「古き良き時代」への憧憬を感じさせるこの作品が2020年の今1980年代のアイコン足り得ているのは、思えば不思議な感覚です。
逃げようとした結果タイムトラベルしてしまいタイムマシンが燃料切れを起こしてしまいどうやって帰る手段を獲得するか?というSFサスペンス要素、結婚する前の父母と期せずして関わってしまったことでタイムパラドックスにより自身の誕生さえ危うくなってしまったマーティがどうやって両親の仲を取り持つかというラブコメ的要素が同時展開して絡み合うストーリーライン、時に大胆に時にさりげなく配置された伏線の妙、秒単位で状況が切り替わりスリルとサスペンスを生むクライマックス、その先に待つ大団円までエンターテインメントに求められる全ての要素が高い次元で揃っています。久しぶりに観たらオチを知っているのについハラハラしてしまったあたり、やっぱり良くできています。
この作品に限らず、観るだけなら配信でも充分に観られる作品は多いですが、ただ懐かしさだけでなくスクリーンで観る体験で得られるものは多いはず。「午前十時の映画祭」はいったん幕を閉じますが、名古屋ではミッドランドスクエアシネマのように独自の企画で旧作も積極的に上映するシネコンも全国各所に点在しており、機会があれば是非捕まえてほしいですね。
そこで初めて「カタン」をプレイ。非常に有名な割に今まで縁が無くルールを教えてもらいながらでしたが、なるほどこれは楽しいですね!やり始めたら一晩中でもプレイする人もいると聞きましたが、それも分かる気がします。
こんばんは、小島@監督です。
また折を見てプレイしてみたいですね。
さて、今回の映画は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」です。
1985年カリフォルニア。ロックとペプシコーラとスケボーを愛する少年マーティ・マクフライ(マイケル・J・フォックス)は親友で科学者のエメット・ブラウン(通称ドク)(クリストファー・ロイド)に、「見せたいものがあるから」と深夜のショッピングモールに呼び出される。モールを訪れたマーティにドクはそこでスポーツカー「デロリアン」を改造したマシンを見せる。
実験としてドクの愛犬アインシュタインを乗せ走り出したデロリアンは時速140㎞に到達した後一度消え、正確に1分後に現れた。ドクは人類初のタイムマシンの開発に成功していたのだ。しかし喜ぶ間もなくタイムマシンの燃料であるプルトニウムをドクに騙し取られたリビアの過激派の襲撃に遭いドクは射殺されてしまった。何とか危地を脱しようとするマーティはデロリアンを疾走させる。その時シフトレバーを操作する際に次元転移装置のスイッチまで入れてしまったマーティは30年前の1955年にタイムスリップしてしまった。そこでマーティは結婚する前の両親と出会う。
2010年より続いてきた、シネコンでクラシックな名画を午前10時に上映するプログラム「午前十時の映画祭」が今月で一旦その幕を下ろします。その最後の上映作品としてチョイスされたのが、今回取り上げる「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作です。TV放送やDVDなどでもう何度も観た事のある作品ですが、今回初めてスクリーンで鑑賞する機会に恵まれました。
1985年に1作目が製作され大ヒットを記録、その後1989年にパート2が、1990年に完結編となるパート3が製作されいずれも大ヒット。ユニバーサルスタジオジャパンにもこれをベースにしたアトラクションが作られるほど人気のタイトルとなりました。監督は「フォレスト・ガンプ」でアカデミー賞を受賞したロバート・ゼメキス、製作総指揮には40年以上トップクリエイターであり続けるスティーブン・スピルバーグと「インディ・ジョーンズ」シリーズや「ジェイソン・ボーン」シリーズを手掛けたフランク・マーシャルと、今から思えばそうそうたる製作陣です。
音楽を担当したアラン・シルヴェストリの手によるテーマ曲、タイムマシンのモデルとして使われたデロリアンDMC-12のフォルムなど全てがあまりに鮮烈。誇張ではなく1980年代後半のアイコンの一つとなった作品と言えるでしょう。主人公マーティがタイムトラベルしてしまう先である1955年、どこかその「古き良き時代」への憧憬を感じさせるこの作品が2020年の今1980年代のアイコン足り得ているのは、思えば不思議な感覚です。
逃げようとした結果タイムトラベルしてしまいタイムマシンが燃料切れを起こしてしまいどうやって帰る手段を獲得するか?というSFサスペンス要素、結婚する前の父母と期せずして関わってしまったことでタイムパラドックスにより自身の誕生さえ危うくなってしまったマーティがどうやって両親の仲を取り持つかというラブコメ的要素が同時展開して絡み合うストーリーライン、時に大胆に時にさりげなく配置された伏線の妙、秒単位で状況が切り替わりスリルとサスペンスを生むクライマックス、その先に待つ大団円までエンターテインメントに求められる全ての要素が高い次元で揃っています。久しぶりに観たらオチを知っているのについハラハラしてしまったあたり、やっぱり良くできています。
この作品に限らず、観るだけなら配信でも充分に観られる作品は多いですが、ただ懐かしさだけでなくスクリーンで観る体験で得られるものは多いはず。「午前十時の映画祭」はいったん幕を閉じますが、名古屋ではミッドランドスクエアシネマのように独自の企画で旧作も積極的に上映するシネコンも全国各所に点在しており、機会があれば是非捕まえてほしいですね。
連日ニュースを騒がせる某ウィルスのおかげで国中で自粛ムード一色。まともに人がいない映画館とかあまり見たくない光景でしたよ。今月に入ってからはお酒の売り上げも大きく落ち込んでいて正直ちょっと嫌な感じの仕事の少なさです。溜まった録画を消化したり滞っていたゲームを進めるには丁度いいのですが(苦笑)
こんばんは、小島@監督です。
一日も早いこの状況からの回復を望みます。
さて、今回の映画は「彼らは生きていた」です。
1914年、サラエボでオーストリア=ハンガリーの皇太子が暗殺されたことがきっかけとなり世界全ての経済大国を巻き込んだ戦争が勃発した。
イギリス各地では宣戦布告の通知と共に募兵を呼びかけるポスターが街中に貼り出され、多くの若者が志願した。志願資格は19~35歳だったが誕生日をごまかして入隊した19歳未満の者も少なくなかった。「周りが皆、志願していたから」「退屈な日々から解放されたかった」、理由は様々だった。
彼らはまず練兵場へ送られ、数週間の訓練の後西部戦線へと派遣されていった。
遠方からの砲撃音が飛び交う塹壕での日々。粗悪な環境だが束の間の休息を楽しめることもあった。しかし、大規模な突撃の時は遂にやってきた…
第一次大戦終戦から100年を経た2018年、イギリスでは帝国戦争博物館(第一次大戦のメモリアルとして1920年に開館した施設。イギリス各地に5か所ある)と100周年記念芸術プログラム「14-18NOW」の共同プロジェクトとして1本のドキュメンタリー映画が製作されました。監督は「ロード・オブ・ザ・リング」3部作で世界的に高い評価を得るピーター・ジャクソン。彼の祖父もまた第一次大戦時に従軍した兵士であり、「ロード・オブ・ザ・リング」の原作者トールキンもそんな従軍兵の一人でした。ある意味でピーター・ジャクソンにとって自身のルーツを探る旅でもあったことでしょう。
非常に繊細で丹念な仕事の積み重ねが結実した映画です。
映画は冒頭モノクロの記録映像で始まりますが、十数分後、男たちが西部戦線に投入されると映像は一変します。綿密な考証のもとモノクロの映像は着色されカラーになり、手動のカメラで1秒13~18フレームのバラバラのスピードで撮影された映像の空白を埋め24フレームに修正し古い映像に良くあるフレームレートと実際の動きと速さのズレを調整し(コマが少ないまま24フレームで上映するとコマが不足している分動きが速くなっているように見える)、更に無数の傷や汚れを1コマ1コマレストア。1914年当時は映像と音声を同時に収録する技術はまだなかったためもとは無音である映像に砲撃音や泥の中を行軍する足音、銃器を操作する音、そのさなかを吹く風の音といったサウンドエフェクトを重ねたことで、文字通り「まるで昨日撮影されたかのような」映像が展開します。日本では通常上映のみの公開ですが、実はイギリス本国ではここから更に3Dへとコンバートされたバージョンも上映されたそうです。
またこの作品ではBBCが保管していた第一次大戦後退役軍人たちへとインタビューした音声素材をナレーションとして使っています。デジタルがもたらした奇跡ともいえる映像と、当時を体験した者たちの肉声を重ねたことにより臨場感はどこまでも高まり、無機質な歴史の一幕でしかなかった100年前の出来事が等身大で自身の地続きのことのように感じられます。
束の間の休息のさなかにカメラを向けられポーズを取ったりおどけたりする兵士たちの姿と、一方で銃撃や砲撃で頭や体を喪い命を落としてもそのまま放置されハエがたかりネズミに食われるままにされ朽ちていく様も全てが等価値かつ冷徹な視点で綴られただただありのままに伝えようとする姿勢故にどこまでも生々しく迫ります。彼らは確かに100年前にそこにいた、血の通った人間たちであったのだと教えてくれます。
題材と事実に誠実に向き合ったからこそなし得た、心の奥にまで刺さるような余韻を観る者に与える作品です。技術的な実験の塊でもある意欲作でもあり、100年前の物事に新たな視点を与え「歴史」を少しだけ近く感じられるようになることで現在の事象とどう向き合うかを考えさせてくれるよすがともなるでしょう。
これもまた映画の持つ魔法の力。是非、多くの方にご覧になって頂きたいですね。
こんばんは、小島@監督です。
一日も早いこの状況からの回復を望みます。
さて、今回の映画は「彼らは生きていた」です。
1914年、サラエボでオーストリア=ハンガリーの皇太子が暗殺されたことがきっかけとなり世界全ての経済大国を巻き込んだ戦争が勃発した。
イギリス各地では宣戦布告の通知と共に募兵を呼びかけるポスターが街中に貼り出され、多くの若者が志願した。志願資格は19~35歳だったが誕生日をごまかして入隊した19歳未満の者も少なくなかった。「周りが皆、志願していたから」「退屈な日々から解放されたかった」、理由は様々だった。
彼らはまず練兵場へ送られ、数週間の訓練の後西部戦線へと派遣されていった。
遠方からの砲撃音が飛び交う塹壕での日々。粗悪な環境だが束の間の休息を楽しめることもあった。しかし、大規模な突撃の時は遂にやってきた…
第一次大戦終戦から100年を経た2018年、イギリスでは帝国戦争博物館(第一次大戦のメモリアルとして1920年に開館した施設。イギリス各地に5か所ある)と100周年記念芸術プログラム「14-18NOW」の共同プロジェクトとして1本のドキュメンタリー映画が製作されました。監督は「ロード・オブ・ザ・リング」3部作で世界的に高い評価を得るピーター・ジャクソン。彼の祖父もまた第一次大戦時に従軍した兵士であり、「ロード・オブ・ザ・リング」の原作者トールキンもそんな従軍兵の一人でした。ある意味でピーター・ジャクソンにとって自身のルーツを探る旅でもあったことでしょう。
非常に繊細で丹念な仕事の積み重ねが結実した映画です。
映画は冒頭モノクロの記録映像で始まりますが、十数分後、男たちが西部戦線に投入されると映像は一変します。綿密な考証のもとモノクロの映像は着色されカラーになり、手動のカメラで1秒13~18フレームのバラバラのスピードで撮影された映像の空白を埋め24フレームに修正し古い映像に良くあるフレームレートと実際の動きと速さのズレを調整し(コマが少ないまま24フレームで上映するとコマが不足している分動きが速くなっているように見える)、更に無数の傷や汚れを1コマ1コマレストア。1914年当時は映像と音声を同時に収録する技術はまだなかったためもとは無音である映像に砲撃音や泥の中を行軍する足音、銃器を操作する音、そのさなかを吹く風の音といったサウンドエフェクトを重ねたことで、文字通り「まるで昨日撮影されたかのような」映像が展開します。日本では通常上映のみの公開ですが、実はイギリス本国ではここから更に3Dへとコンバートされたバージョンも上映されたそうです。
またこの作品ではBBCが保管していた第一次大戦後退役軍人たちへとインタビューした音声素材をナレーションとして使っています。デジタルがもたらした奇跡ともいえる映像と、当時を体験した者たちの肉声を重ねたことにより臨場感はどこまでも高まり、無機質な歴史の一幕でしかなかった100年前の出来事が等身大で自身の地続きのことのように感じられます。
束の間の休息のさなかにカメラを向けられポーズを取ったりおどけたりする兵士たちの姿と、一方で銃撃や砲撃で頭や体を喪い命を落としてもそのまま放置されハエがたかりネズミに食われるままにされ朽ちていく様も全てが等価値かつ冷徹な視点で綴られただただありのままに伝えようとする姿勢故にどこまでも生々しく迫ります。彼らは確かに100年前にそこにいた、血の通った人間たちであったのだと教えてくれます。
題材と事実に誠実に向き合ったからこそなし得た、心の奥にまで刺さるような余韻を観る者に与える作品です。技術的な実験の塊でもある意欲作でもあり、100年前の物事に新たな視点を与え「歴史」を少しだけ近く感じられるようになることで現在の事象とどう向き合うかを考えさせてくれるよすがともなるでしょう。
これもまた映画の持つ魔法の力。是非、多くの方にご覧になって頂きたいですね。
まさか突然小中高一斉休校なんて手を打つとは。職場でもお子さんが学童保育に預けられずに休まざるを得なくなった人が出た場合のフォローをどうするかの確認に追われたり、家は家で昨日はせっかくの1日日曜日だから映画観に行こうとしたら母親から「頼むから今日は出かけないでくれ」と散々言われて仕方なく取りやめ自宅に引きこもってました。そしたらよりにもよって今週行こうと思っていた愛知県美術館の「コートールド美術館展」が昨日までで期間を短縮して展示終了になってしまい軽く凹んでいます。
おかげ様で若干フラストレーションが溜まり気味。次の休みは絶対に映画観に行ってやる。
こんばんは、小島@監督です。
偶然でしょうがそんな折に地上波初放送してた「ランペイジ 巨獣大乱闘」はこういう気が滅入りそうな時にぴったりのあっけらかんと楽しいエンターテインメント。放送をご覧にならなかった方も配信やレンタルで巨獣と対等に渡り合ってしまうドウェイン・ジョンソンの活躍を見届けろ!
さて、今回の映画は「犬鳴村」です。
臨床心理士・森田奏(三吉彩花)は、昔から霊が見えてしまう体質の持ち主だった。その奏の周囲である時から奇妙な出来事が続発する。兄・悠真(坂東龍汰)の恋人・西田明菜(大谷凛香)はわらべ歌のようなものを口ずさみながら辺りを徘徊するようになり、悠真もまた弟・康太(海津陽)と共に姿を消した。そして奏の周囲で不可解な変死が相次ぐ。それら全てに共通していたのは日本で最も恐ろしいとまで言われる心霊スポット「犬鳴トンネル」だった。真相を突き止めるべく、奏は犬鳴トンネルへと向かうのだが…
いつ頃からか、ホラー映画の旬は夏場よりも冬から早春にかけてに変わっていきました。今くらいの時期は大作がひしめく年末年始やゴールデンウイークの狭間で映画ファン向けの個性的な作品を上映しやすいシーズンでもあるため結果的に寄り集まってくる、という部分もあるかもしれません。それを差し引いても何故か今年は何だか今まで以上にホラーやスリラー系の映画がこの時期に集中しており、邦画も1本名乗りを上げています。それがこの「犬鳴村」。監督は「呪怨」シリーズで知られる清水崇、脚本は「貞子3D2」などこちらもホラージャンルで活躍している保坂大輔が手掛けています。
なにぶん多少でもオカルトをかじったことがある方なら名前くらいは聞いたことがあるであろう、その道ではトップクラスに知名度の高い都市伝説と心霊スポットを題材にしていることも手伝ってか、なかなか好調な動員を記録しているようですね。
これぞ和製ホラーというべきか、怪談噺を思わせるじめっとした湿度の高い質感を楽しめるホラー映画です。トンネルの中だけでなく全体的に雨模様のような雰囲気を漂わせる画面が続くのは、作中でも水が重要なファクターの一つであるだけでなく物語の軸足が地縁的な情念の中にあることも示唆しているのでしょう。土俗的なところに核を置いた物語の構図について近い雰囲気では2016年に公開された「残穢」を思い起こさせますが、あちらよりは恐怖演出がダイレクトなのが特徴です。
いわゆるPOVスタイルで見せる冒頭のシークエンスから、不穏さ全開のシーンが続き実にコワくて楽しいのですが、残念なのはそれが前半だけであること。主人公・奏が核心に迫っていくにつれ、また「核心」の方から奏の方に近付いていくにつれ「それら」が自重しなくなってくるというか隠さなくなってくるのでせっかくの「湿度」も下がってきてしまう点です。映画的で派手なクライマックスも重要ですがもっと怪談噺的テイストを前面に押し出して欲しかったというか。
観ててスカッとするタイプの映画ではなく、不完全燃焼な部分も多いため手放しで褒められるような作品でもないですがたまにこういうのが出てくれないとちょっと物足りなくなるどこかオーセンティックなジャパニーズホラー、なかなかに外出も憚られるご時世ですが、できればスクリーンでご堪能あれ。
おかげ様で若干フラストレーションが溜まり気味。次の休みは絶対に映画観に行ってやる。
こんばんは、小島@監督です。
偶然でしょうがそんな折に地上波初放送してた「ランペイジ 巨獣大乱闘」はこういう気が滅入りそうな時にぴったりのあっけらかんと楽しいエンターテインメント。放送をご覧にならなかった方も配信やレンタルで巨獣と対等に渡り合ってしまうドウェイン・ジョンソンの活躍を見届けろ!
さて、今回の映画は「犬鳴村」です。
臨床心理士・森田奏(三吉彩花)は、昔から霊が見えてしまう体質の持ち主だった。その奏の周囲である時から奇妙な出来事が続発する。兄・悠真(坂東龍汰)の恋人・西田明菜(大谷凛香)はわらべ歌のようなものを口ずさみながら辺りを徘徊するようになり、悠真もまた弟・康太(海津陽)と共に姿を消した。そして奏の周囲で不可解な変死が相次ぐ。それら全てに共通していたのは日本で最も恐ろしいとまで言われる心霊スポット「犬鳴トンネル」だった。真相を突き止めるべく、奏は犬鳴トンネルへと向かうのだが…
いつ頃からか、ホラー映画の旬は夏場よりも冬から早春にかけてに変わっていきました。今くらいの時期は大作がひしめく年末年始やゴールデンウイークの狭間で映画ファン向けの個性的な作品を上映しやすいシーズンでもあるため結果的に寄り集まってくる、という部分もあるかもしれません。それを差し引いても何故か今年は何だか今まで以上にホラーやスリラー系の映画がこの時期に集中しており、邦画も1本名乗りを上げています。それがこの「犬鳴村」。監督は「呪怨」シリーズで知られる清水崇、脚本は「貞子3D2」などこちらもホラージャンルで活躍している保坂大輔が手掛けています。
なにぶん多少でもオカルトをかじったことがある方なら名前くらいは聞いたことがあるであろう、その道ではトップクラスに知名度の高い都市伝説と心霊スポットを題材にしていることも手伝ってか、なかなか好調な動員を記録しているようですね。
これぞ和製ホラーというべきか、怪談噺を思わせるじめっとした湿度の高い質感を楽しめるホラー映画です。トンネルの中だけでなく全体的に雨模様のような雰囲気を漂わせる画面が続くのは、作中でも水が重要なファクターの一つであるだけでなく物語の軸足が地縁的な情念の中にあることも示唆しているのでしょう。土俗的なところに核を置いた物語の構図について近い雰囲気では2016年に公開された「残穢」を思い起こさせますが、あちらよりは恐怖演出がダイレクトなのが特徴です。
いわゆるPOVスタイルで見せる冒頭のシークエンスから、不穏さ全開のシーンが続き実にコワくて楽しいのですが、残念なのはそれが前半だけであること。主人公・奏が核心に迫っていくにつれ、また「核心」の方から奏の方に近付いていくにつれ「それら」が自重しなくなってくるというか隠さなくなってくるのでせっかくの「湿度」も下がってきてしまう点です。映画的で派手なクライマックスも重要ですがもっと怪談噺的テイストを前面に押し出して欲しかったというか。
観ててスカッとするタイプの映画ではなく、不完全燃焼な部分も多いため手放しで褒められるような作品でもないですがたまにこういうのが出てくれないとちょっと物足りなくなるどこかオーセンティックなジャパニーズホラー、なかなかに外出も憚られるご時世ですが、できればスクリーンでご堪能あれ。
先日、ワインだけでなく食材も取り扱うあるインポーターのイベントに招かれて行ったのですが、そこで全粒粉のスパゲッティを頂きました。早速試してみたらえらい腹持ちの良さでいつもより少なめの量でも満腹に。ちょっと蕎麦を思わせる食感です。茹でてる間も少しばかり蕎麦のような匂いが立ち上りましたし。普通のスパゲッティより長めに茹でる必要があるくらいコシが強く歯応えもある代わりにのど越しも違うので毎回コレなのはちょいとアレですが、繊維質の塊なのでたまにコレに代えるのはダイエットにもなって丁度いいかも。
こんばんは、小島@監督です。
輸入食品を取り扱うスーパーでも売ってたりするのでご興味ある方はお試しあれ。普通のスパゲッティより価格が倍くらいしますけどね(笑)
さて、2週連続で何ですが今回もアイマスネタ。昨日横浜まで「THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC♪GROOVE☆ENCORE」(以下「アイマスMR」)水瀬伊織主演公演を観に行ってきました。先週大阪で昨日横浜とか新型コロナウィルスの爆心地にばかり行ってるような気がしますが偶然です。ええ、偶然ですとも。
「アイマスMR」MRは横浜のDMM VRシアターで一昨年から断続的に開催されているイベントで、数あるアイマスイベントの中でも極めて特殊な部類に入ります。DMM VRシアターはホログラム投影装置を使って実在するかのような映像をステージに登場させられるシアターで、早い話がアイマスのキャラクターが文字通りそのまま「ステージに立って」パフォーマンスします。そのためキャラクターはキャラクターのまま紹介され例えば「天海春香役中村繪理子」ではなく「天海春香」として登場するのがポイントです。イベントの所要時間は約1時間程度と短くその日の主演は日替わりというのも特徴。
余談ですが私の観た回では何か機材トラブルがあったらしく前説の映像が3回も繰り返されるアクシデントが。ようやく本編が始まった時は場内で大きな拍手が(笑)
ステージは楽曲→MC→楽曲の3段階で構成。楽曲のセットリストは当日の主演キャラのソロ曲2曲以外は共通のよう。瞬時にキャラが衣裳と背景ごと切り替わり様々な曲を聴かせてくれます。なかなか驚くのが登場しているキャラクターと基本的に「視線が合う」こと。常に自分を向いてパフォーマンスをしているように見えます。始めは錯覚なのかと思いましたが、終演後SNSで感想を拾ってみたところ他の方も同様な感覚を抱いていたようで、技術論などは良く分かりませんがどうやら「どの座席に座っていても壇上のキャラと視線が合う」ようになっているようです。更に言うとソロ曲では(こちらは本当にステージに立っている)バックダンサーと動きを揃えたりステージに運び込まれた椅子に座ってパフォーマンスしたりと動きを平板に見せない工夫が随所にありイチイチ驚かされます。
そして何よりこのイベントの白眉はMCにあります。壇上にいるのはCGキャラとはいえMCはほぼアドリブ。前述の3回繰り返された前説もちゃんと拾ってくれます。更に驚くことに何とランダムで選ばれた人と実際に会話します。システム的な会話ではなくガチの会話です。種を明かせば裏手(?)に声優が控えているということなのでしょうが、次元の壁を突き破ってみせるこの手法、噂には聞いていましたが実際観てみると筆舌に尽くしがたい衝撃と感激が同時波状攻撃で襲ってきます。会話相手に選ばれなかったのは残念でしたがまさかこんなものを観れる日が来ようとは。一昨年の初公演から時間さえあれば何度もリピートを重ねた人がいるというのも分かります。
DMM VRシアターは4月末で営業終了らしくコレが観られるのも今のところ今回が最後らしいのですが「とうとうここまで来たか」感が凄いこのイベント、形を変えていつかまた再演してほしいところ。いやコレは他の回も観てみたい。
こんばんは、小島@監督です。
輸入食品を取り扱うスーパーでも売ってたりするのでご興味ある方はお試しあれ。普通のスパゲッティより価格が倍くらいしますけどね(笑)
さて、2週連続で何ですが今回もアイマスネタ。昨日横浜まで「THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC♪GROOVE☆ENCORE」(以下「アイマスMR」)水瀬伊織主演公演を観に行ってきました。先週大阪で昨日横浜とか新型コロナウィルスの爆心地にばかり行ってるような気がしますが偶然です。ええ、偶然ですとも。
「アイマスMR」MRは横浜のDMM VRシアターで一昨年から断続的に開催されているイベントで、数あるアイマスイベントの中でも極めて特殊な部類に入ります。DMM VRシアターはホログラム投影装置を使って実在するかのような映像をステージに登場させられるシアターで、早い話がアイマスのキャラクターが文字通りそのまま「ステージに立って」パフォーマンスします。そのためキャラクターはキャラクターのまま紹介され例えば「天海春香役中村繪理子」ではなく「天海春香」として登場するのがポイントです。イベントの所要時間は約1時間程度と短くその日の主演は日替わりというのも特徴。
余談ですが私の観た回では何か機材トラブルがあったらしく前説の映像が3回も繰り返されるアクシデントが。ようやく本編が始まった時は場内で大きな拍手が(笑)
ステージは楽曲→MC→楽曲の3段階で構成。楽曲のセットリストは当日の主演キャラのソロ曲2曲以外は共通のよう。瞬時にキャラが衣裳と背景ごと切り替わり様々な曲を聴かせてくれます。なかなか驚くのが登場しているキャラクターと基本的に「視線が合う」こと。常に自分を向いてパフォーマンスをしているように見えます。始めは錯覚なのかと思いましたが、終演後SNSで感想を拾ってみたところ他の方も同様な感覚を抱いていたようで、技術論などは良く分かりませんがどうやら「どの座席に座っていても壇上のキャラと視線が合う」ようになっているようです。更に言うとソロ曲では(こちらは本当にステージに立っている)バックダンサーと動きを揃えたりステージに運び込まれた椅子に座ってパフォーマンスしたりと動きを平板に見せない工夫が随所にありイチイチ驚かされます。
そして何よりこのイベントの白眉はMCにあります。壇上にいるのはCGキャラとはいえMCはほぼアドリブ。前述の3回繰り返された前説もちゃんと拾ってくれます。更に驚くことに何とランダムで選ばれた人と実際に会話します。システム的な会話ではなくガチの会話です。種を明かせば裏手(?)に声優が控えているということなのでしょうが、次元の壁を突き破ってみせるこの手法、噂には聞いていましたが実際観てみると筆舌に尽くしがたい衝撃と感激が同時波状攻撃で襲ってきます。会話相手に選ばれなかったのは残念でしたがまさかこんなものを観れる日が来ようとは。一昨年の初公演から時間さえあれば何度もリピートを重ねた人がいるというのも分かります。
DMM VRシアターは4月末で営業終了らしくコレが観られるのも今のところ今回が最後らしいのですが「とうとうここまで来たか」感が凄いこのイベント、形を変えていつかまた再演してほしいところ。いやコレは他の回も観てみたい。
例のコロナウィルス関連で世間がちょいとピリピリしてる中、大阪へ遠征してきました。
観光客の大幅減がニュースなどで度々報じられていますが、宿の価格の安さにそれを実感します。こういう状況でもなければまず泊まれないタイプの所に泊まれたりしたのでそこのところは良かったりなんですが。2階建てになってる部屋なんて初めてでしたよ。浴室も異様にひろかったですし。
こんばんは、小島@監督です。
多大に自己責任な部分がありますが、どこかに旅行に行くならある意味今はチャンスかもしれません。ホント安いです、宿。
さて、その大阪で「 THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 7thLIVE TOUR
Special 3chord♪ Glowing Rock!」を観てきました。昨年9月の幕張公演から始まったシンデレラガールズ7thツアーもこれが最終公演。これまでは日程的に全てを観ることができませんでしたが、最後にしてようやく2Daysを両日現地で観る事が叶いました。
シンデレラガールズの大型ライブとしては初めてのバックバンドを擁した生演奏が売りとなった今回、まさに「音」の持つパワーを叩き付けるようなライブになっていました。
「ガールズ・イン・ザ・フロンティア」で幕を開けたこのライブ、「Lunatic Show」「美に入り彩を穿つ」など「Growing Rock」というライブタイトルらしいハードなビートを楽しむナンバーで序盤から畳み掛けます。バックバンドが入ったことでベースラインやドラムが普段のオケのみのライブより強調されて「音」が観客に届きやすくなっていたのが特徴です。反面調整がデリケートかつタイトだったのか、ステージレイアウトにこれまでのような「遊び」が無くメインステージのみで遠い客席のためのモニターも2か所しかなく、初日はホームベースラインに近いところの上段席にいたのですが、正直ステージで何をやっているのかあまり分からない状況でした。ただその分、音だけで観客のボルテージを上げに来るパフォーマンスをより高い純度で満喫できたともいえます。幸いなことに2日目はステージにほど近いアリーナ席で観れたので細かい所作も含めた部分はむしろこちらで楽しめました。
とにかくバックバンドの音と出演者の歌声のミックスアップを楽しんでもらうことを主眼に構成されたセットリストで、中には楽曲とそれを歌う出演者との関係性にストーリーを感じさせるものも多く、響く人にはもうその様だけで堪らない楽曲が次々と登場するので実にエモーショナルです。
ただそんな中にあって出色だったのは両日2曲ずつ披露されたアコースティックナンバー。初日は我が担当北条加蓮役渕上舞さんの「薄荷」と橘ありす役佐藤亜美菜さんの「in fact」、2日目には新田美波役洲崎綾さんの「Voyage」といずれもバラードを通常とは違うアレンジで出演者の表現力と歌唱力を最大限に活かす方向で観客を引き込んでいきました。そして何より今回のライブのベストアクトと言えるのが佐久間まゆ役牧野由依さんの「エヴリデイドリーム~マイスイートハネムーン」のメドレー。原曲は割とキュートなアイドルポップなのですが、ピアノソロで始まるバラード調にアレンジされた前半部は身を焦がすような恋心を、転調してラテンアレンジへと変わった後半部はより深い愛情の発露へと切々と歌い上げ、まさに「5万人を恋に落とす」かのようなパフォーマンスに万雷の拍手が次の曲が始まるまで鳴り止まないその様に、表現者牧野由依の真骨頂を観た思いです。
ライブ終盤にはサプライズ扱いでカバー曲が登場。初日では島村卯月役大橋彩香さんの「HOT LIMIT」が。しかもわざわざ大きな送風機まで持ち込んでのパフォーマンスがカッコいいやら笑うやら。Day2には星輝子役松田颯水さんの「紅」が登場。松田颯水さんは7thツアー6公演のクライマックスともいえるDay2の最終ブロックで実に4曲を受け持つ大活躍ぶりでその集大成ともいえるのが「紅」でした。バックバンドもそれを聴いてそして弾いてきた人たちばかりだったのでしょう、随所にX JAPANへのリスペクトが感じられる演奏と小柄な体格からは想像もつかぬパワフルな松田颯水の声量は圧巻と呼ぶに相応しいパフォーマンスでした。
完全に会場の空気に当てられた格好ですがそれこそバカみたいに叫び倒した2日間でした。デレマスの新たな可能性を観た今回の7thツアー、まだまだいろいろな引き出しが眠っていそうです。今年9月に新たなイベントの実施も発表され、今後もまだまだ楽しみは尽きなさそうです。
観光客の大幅減がニュースなどで度々報じられていますが、宿の価格の安さにそれを実感します。こういう状況でもなければまず泊まれないタイプの所に泊まれたりしたのでそこのところは良かったりなんですが。2階建てになってる部屋なんて初めてでしたよ。浴室も異様にひろかったですし。
こんばんは、小島@監督です。
多大に自己責任な部分がありますが、どこかに旅行に行くならある意味今はチャンスかもしれません。ホント安いです、宿。
さて、その大阪で「 THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 7thLIVE TOUR
Special 3chord♪ Glowing Rock!」を観てきました。昨年9月の幕張公演から始まったシンデレラガールズ7thツアーもこれが最終公演。これまでは日程的に全てを観ることができませんでしたが、最後にしてようやく2Daysを両日現地で観る事が叶いました。
シンデレラガールズの大型ライブとしては初めてのバックバンドを擁した生演奏が売りとなった今回、まさに「音」の持つパワーを叩き付けるようなライブになっていました。
「ガールズ・イン・ザ・フロンティア」で幕を開けたこのライブ、「Lunatic Show」「美に入り彩を穿つ」など「Growing Rock」というライブタイトルらしいハードなビートを楽しむナンバーで序盤から畳み掛けます。バックバンドが入ったことでベースラインやドラムが普段のオケのみのライブより強調されて「音」が観客に届きやすくなっていたのが特徴です。反面調整がデリケートかつタイトだったのか、ステージレイアウトにこれまでのような「遊び」が無くメインステージのみで遠い客席のためのモニターも2か所しかなく、初日はホームベースラインに近いところの上段席にいたのですが、正直ステージで何をやっているのかあまり分からない状況でした。ただその分、音だけで観客のボルテージを上げに来るパフォーマンスをより高い純度で満喫できたともいえます。幸いなことに2日目はステージにほど近いアリーナ席で観れたので細かい所作も含めた部分はむしろこちらで楽しめました。
とにかくバックバンドの音と出演者の歌声のミックスアップを楽しんでもらうことを主眼に構成されたセットリストで、中には楽曲とそれを歌う出演者との関係性にストーリーを感じさせるものも多く、響く人にはもうその様だけで堪らない楽曲が次々と登場するので実にエモーショナルです。
ただそんな中にあって出色だったのは両日2曲ずつ披露されたアコースティックナンバー。初日は我が担当北条加蓮役渕上舞さんの「薄荷」と橘ありす役佐藤亜美菜さんの「in fact」、2日目には新田美波役洲崎綾さんの「Voyage」といずれもバラードを通常とは違うアレンジで出演者の表現力と歌唱力を最大限に活かす方向で観客を引き込んでいきました。そして何より今回のライブのベストアクトと言えるのが佐久間まゆ役牧野由依さんの「エヴリデイドリーム~マイスイートハネムーン」のメドレー。原曲は割とキュートなアイドルポップなのですが、ピアノソロで始まるバラード調にアレンジされた前半部は身を焦がすような恋心を、転調してラテンアレンジへと変わった後半部はより深い愛情の発露へと切々と歌い上げ、まさに「5万人を恋に落とす」かのようなパフォーマンスに万雷の拍手が次の曲が始まるまで鳴り止まないその様に、表現者牧野由依の真骨頂を観た思いです。
ライブ終盤にはサプライズ扱いでカバー曲が登場。初日では島村卯月役大橋彩香さんの「HOT LIMIT」が。しかもわざわざ大きな送風機まで持ち込んでのパフォーマンスがカッコいいやら笑うやら。Day2には星輝子役松田颯水さんの「紅」が登場。松田颯水さんは7thツアー6公演のクライマックスともいえるDay2の最終ブロックで実に4曲を受け持つ大活躍ぶりでその集大成ともいえるのが「紅」でした。バックバンドもそれを聴いてそして弾いてきた人たちばかりだったのでしょう、随所にX JAPANへのリスペクトが感じられる演奏と小柄な体格からは想像もつかぬパワフルな松田颯水の声量は圧巻と呼ぶに相応しいパフォーマンスでした。
完全に会場の空気に当てられた格好ですがそれこそバカみたいに叫び倒した2日間でした。デレマスの新たな可能性を観た今回の7thツアー、まだまだいろいろな引き出しが眠っていそうです。今年9月に新たなイベントの実施も発表され、今後もまだまだ楽しみは尽きなさそうです。
いろいろと思うところあって、先日脳ドックを受診してきました。人生初のMRIです。約20分間、仰向けに寝たまま体勢を変えられないというのはなかなかきつく、仕方ないから深呼吸を繰り返していたら耳元で絶え間なく機械の作動音がしているのに段々眠くなってしまいました(笑)
結果は脳自体には問題無く、ただ頸動脈に1.5㎜ほどの小さな隆起が認められるとのこと。動脈瘤かどうかは即断できないそうなので経過観察扱い。また1年後に受診して欲しいとのコメントでした。
取り敢えず差し迫った案件は無いようでひと安心…かな。
こんばんは、小島@監督です。
まあ、後はとにかく体脂肪を減らせって話ですな(笑)
さて、今回の映画は「ブレッドウィナー」です。
タリバン政権下のアフガニスタン、カブール。11歳の少女パヴァーナ(声・サーラ・チャウディリー)は戦争で足を失った父、体の弱い母、姉そして幼い弟と暮らしている。だがある日、パヴァーナが父の行商を手伝っていると理不尽な因縁を付けられ「イスラムの敵」として刑務所へ連行されてしまった。その日を境に家族の生活は一変する。タリバン政権下では女性一人の外出も女性だけでの買い物も禁じられており、その日の水や食事にも事欠くように。何とか刑務所へ嘆願に行こうとした母は街を出ることもできず兵士に鞭打たれてしまう。どうにかしたいパヴァーナは自分の髪を短く切って「少年」として街へ稼ぎに出るのだが…
「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」「ブレンダンとケルズの秘密」などで近年注目を集めるアイルランドのアニメスタジオ「カートゥーン・サルーン」、その設立メンバーの一人である女性アニメーター・ノラ・トゥーミーが長編初監督作品の原作として選んだのはカナダの作家・平和活動家のデボラ・エリスが2000年に発表した「生きのびるために」。パキスタンやアフガニスタン難民に取材を重ね、女性や子供がいかにして貧困や苦難と向き合ってきたかを物語にして綴ったこの1冊は日本を含め世界各国で翻訳されました。映画化の実現には俳優でありながら国連難民高等弁務官事務所で特使も務めるアンジェリーナ・ジョリーもエグゼクティブ・プロデューサーとしてサポートしたそうです。
作品自体は2017年に製作され、翌2018年のアヌシー国際アニメ映画祭などで高い評価を受けるなど評判は既にその頃から伝え聞いていたのですが、題材がヘビーすぎるのか、なかなか日本公開されないのを今か今かと待ち望んでいた作品です。
3年近く待ち望んだ期待を裏切らない、非常に重厚で熱い作品です。
「ブレッドウィナー」とは「働き手」や「稼ぎ頭」を意味する言葉。身体的な性差が顕在化しにくい年頃だから可能な手段ともいえますが、少年となったパヴァーナは極端な男尊女卑の世界で男が生きる世界を垣間見ます。更には同じように男装して生きる少女ショーツィア(声・ソーマ・チハヤー)と出会い、男として生きる術を学んでいきます。何よりパヴァーナには元教師であった父から教わった知識と想像力があります。物語を作って家族やショーツィアに聞かせることを僅かな楽しみの一つとするパヴァーナ。彼女の語る物語が自身の冒険とシンクロしていく構成のダイナミズムが映画をより味わい深いものにしています。
印象的なシーンの多い作品ですが中でも際立っているのはパヴァーナが文字の読めないタリバン兵ラザク(声・カワ・アダ)から家族からの手紙の代読を頼まれたシーン。物語的にも終盤への重要な伏線となるシーンですが、父を連れ去ったタリバン兵をただの粗野で残酷な者たちとしか見ていなかったパヴァーナに人間の複雑さや多面性を感じさせるシーンにもなっており、その精神的成長を大きく促すきっかけになります。また、少なからぬタリバン兵が「イスラム原理主義者と言いながら実はコーランを読んだこともない」という事実を暗に見せ、単にジェンダー的な問題だけでなく教育に接する機会の重要性という更なるテーマを浮き彫りにします。
政権による抑圧がもたらしたパヴァーナの一家の危機は、終盤更に巨大な力がもたらすうねりの中に飲み込まれていきます。その終着点は決して安易なハッピーエンドではありません。ただ成長したパヴァーナの瞳に一条の希望を見出し、観客に重厚な余韻をもたらすのみです。
近年、「この世界の片隅に」や「エセルとアーネスト」など過酷な戦時下で生きる名も無き市井の人を描くアニメーションの秀作が世界各国で生まれています。これもまたそういう潮流の中にある作品の一つといえるでしょう。ようやく劇場公開されたとはいえその規模は限定的で決して気軽に観られる環境にはないですが、真にパワーのある作品なので是非、多くの方にご覧になって頂きたいですね。
結果は脳自体には問題無く、ただ頸動脈に1.5㎜ほどの小さな隆起が認められるとのこと。動脈瘤かどうかは即断できないそうなので経過観察扱い。また1年後に受診して欲しいとのコメントでした。
取り敢えず差し迫った案件は無いようでひと安心…かな。
こんばんは、小島@監督です。
まあ、後はとにかく体脂肪を減らせって話ですな(笑)
さて、今回の映画は「ブレッドウィナー」です。
タリバン政権下のアフガニスタン、カブール。11歳の少女パヴァーナ(声・サーラ・チャウディリー)は戦争で足を失った父、体の弱い母、姉そして幼い弟と暮らしている。だがある日、パヴァーナが父の行商を手伝っていると理不尽な因縁を付けられ「イスラムの敵」として刑務所へ連行されてしまった。その日を境に家族の生活は一変する。タリバン政権下では女性一人の外出も女性だけでの買い物も禁じられており、その日の水や食事にも事欠くように。何とか刑務所へ嘆願に行こうとした母は街を出ることもできず兵士に鞭打たれてしまう。どうにかしたいパヴァーナは自分の髪を短く切って「少年」として街へ稼ぎに出るのだが…
「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」「ブレンダンとケルズの秘密」などで近年注目を集めるアイルランドのアニメスタジオ「カートゥーン・サルーン」、その設立メンバーの一人である女性アニメーター・ノラ・トゥーミーが長編初監督作品の原作として選んだのはカナダの作家・平和活動家のデボラ・エリスが2000年に発表した「生きのびるために」。パキスタンやアフガニスタン難民に取材を重ね、女性や子供がいかにして貧困や苦難と向き合ってきたかを物語にして綴ったこの1冊は日本を含め世界各国で翻訳されました。映画化の実現には俳優でありながら国連難民高等弁務官事務所で特使も務めるアンジェリーナ・ジョリーもエグゼクティブ・プロデューサーとしてサポートしたそうです。
作品自体は2017年に製作され、翌2018年のアヌシー国際アニメ映画祭などで高い評価を受けるなど評判は既にその頃から伝え聞いていたのですが、題材がヘビーすぎるのか、なかなか日本公開されないのを今か今かと待ち望んでいた作品です。
3年近く待ち望んだ期待を裏切らない、非常に重厚で熱い作品です。
「ブレッドウィナー」とは「働き手」や「稼ぎ頭」を意味する言葉。身体的な性差が顕在化しにくい年頃だから可能な手段ともいえますが、少年となったパヴァーナは極端な男尊女卑の世界で男が生きる世界を垣間見ます。更には同じように男装して生きる少女ショーツィア(声・ソーマ・チハヤー)と出会い、男として生きる術を学んでいきます。何よりパヴァーナには元教師であった父から教わった知識と想像力があります。物語を作って家族やショーツィアに聞かせることを僅かな楽しみの一つとするパヴァーナ。彼女の語る物語が自身の冒険とシンクロしていく構成のダイナミズムが映画をより味わい深いものにしています。
印象的なシーンの多い作品ですが中でも際立っているのはパヴァーナが文字の読めないタリバン兵ラザク(声・カワ・アダ)から家族からの手紙の代読を頼まれたシーン。物語的にも終盤への重要な伏線となるシーンですが、父を連れ去ったタリバン兵をただの粗野で残酷な者たちとしか見ていなかったパヴァーナに人間の複雑さや多面性を感じさせるシーンにもなっており、その精神的成長を大きく促すきっかけになります。また、少なからぬタリバン兵が「イスラム原理主義者と言いながら実はコーランを読んだこともない」という事実を暗に見せ、単にジェンダー的な問題だけでなく教育に接する機会の重要性という更なるテーマを浮き彫りにします。
政権による抑圧がもたらしたパヴァーナの一家の危機は、終盤更に巨大な力がもたらすうねりの中に飲み込まれていきます。その終着点は決して安易なハッピーエンドではありません。ただ成長したパヴァーナの瞳に一条の希望を見出し、観客に重厚な余韻をもたらすのみです。
近年、「この世界の片隅に」や「エセルとアーネスト」など過酷な戦時下で生きる名も無き市井の人を描くアニメーションの秀作が世界各国で生まれています。これもまたそういう潮流の中にある作品の一つといえるでしょう。ようやく劇場公開されたとはいえその規模は限定的で決して気軽に観られる環境にはないですが、真にパワーのある作品なので是非、多くの方にご覧になって頂きたいですね。
このブログを書くようになって8年近く経ちますが、まさか初めて休んでしまった理由が「サーバーダウンで書き込むことができなかった」になろうとは予想だにしませんでした。日頃何気なく使ってるものも結構不安定なものの上に成り立っていたりしますね。
こんばんは、小島@監督です。
ま、とにかくまた書けるようになったので、いろいろと綴っていきますよ!
さて、今回の映画は「キャッツ」です。
満月の夜、捨てられた若い白猫のヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)が迷い込んだのはロンドンの路地裏。そこでヴィクトリアが出会ったのは個性豊かな「ジェリクルキャッツ」たち。彼らの心は皆さざめいている。その夜はたった一匹だけ新たな生き方を選ぶことが許される特別な夜。ヴィクトリアはそこで何を見て何を思うのか、一夜限りの宴が始まる。
映画が世に誕生した頃から舞台劇と映画は密接な関係にあり、現在でも洋の東西を問わず年に何本も映画化されています。
1981年に初演されて以来世界中で上演され、日本でも劇団四季の定番の演目の一つであり通算公演回数は1万回を超える「キャッツ」。私自身はまだ観たことがありませんが非常にファンの多いタイトルです。それを「英国王のスピーチ」や「レ・ミゼラブル」などを手掛けたトム・フーパーの手で初めて映画化されました。
日本公開の前からアメリカでの酷評が伝わってきており、世界市場では既に惨憺たる結果となっていることが報じられている中での封切りとなりました。そうなるとむしろ気になってしまうのが映画ファンの性(サガ)。ということで、ホイホイ観に行ってしまいました。
はっきり言って酷評されたのも良く分かる、相当に変な映画です、コレ。観る前はジェリクルキャッツたちの擬人化のビジュアライズのセンスが理由の一つかとも思われましたが実際観てみるとそうではないことが分かります。何でも擬人化してしまう日本的な感性の前ではこのくらいなら特に問題ではないといえるでしょう。むしろ問題は別のところ。脚色の方向性がおかしいというか、音楽は良いのにそれぞれがぶつ切りになってしまいクライマックスへ向けて物語や感情が積み上がっていかないのです。役者と観客が同じ空間の中にいる舞台劇であれば乗り越えられたであろう「壁」が大きく立ちはだかっている印象です。
もう一つ、なまじ出演者の方々が一人残らずできる俳優が揃っているからこその妙な弊害が起きている作品でもあります。
実はミュージカルではつきもののアンサンブル、いわゆるガヤとかバックコーラスとかそういう人たちですが、それがネズミだったりゴキブリに扮していて、早い話がそれらも擬人化されている上に度々猫たちがそれらを食べるシーンが登場したりするのですが、これらが身体能力の高い俳優たちにかかると妙に艶めかしいのです。極め付きはマタタビを浴びせられた猫たちがトリップして海老反ったりするシーンもあるのですが、どこか乱交パーティーのように見えてしまいレーティング指定はかかっていないのにちょっとお子様に見せられる感じになっていません(笑)
一方で最早スタンダードナンバーの一つと言える「メモリー」を始め音楽の外れはほとんどなく、だからこそ感情の持って行き場に困るという不協和音が全編を貫く逸品です。
超大作クラスの予算をかけてこれ以上ない珍品が出来上がる現象に対して「バトルフィールド・アース」(2000年製作)が長らく引き合いに出されてきましたが、どうやらそれに匹敵する代物が誕生してしまったかもしれません。張り切って薦められるものではないですが、ここまでの珍品は今後カルト的な人気を勝ち得る可能性もあり、そういう意味では特にボンクラ映画を愛する向きには先物買い的な鑑賞をお薦めしたい逸品です。あと私自身キャッツという作品に思い入れが無いので何ですが、ミュージカルファンやキャッツファンにはどのように映るのかちょっと聞いてみたい(笑)
こんばんは、小島@監督です。
ま、とにかくまた書けるようになったので、いろいろと綴っていきますよ!
さて、今回の映画は「キャッツ」です。
満月の夜、捨てられた若い白猫のヴィクトリア(フランチェスカ・ヘイワード)が迷い込んだのはロンドンの路地裏。そこでヴィクトリアが出会ったのは個性豊かな「ジェリクルキャッツ」たち。彼らの心は皆さざめいている。その夜はたった一匹だけ新たな生き方を選ぶことが許される特別な夜。ヴィクトリアはそこで何を見て何を思うのか、一夜限りの宴が始まる。
映画が世に誕生した頃から舞台劇と映画は密接な関係にあり、現在でも洋の東西を問わず年に何本も映画化されています。
1981年に初演されて以来世界中で上演され、日本でも劇団四季の定番の演目の一つであり通算公演回数は1万回を超える「キャッツ」。私自身はまだ観たことがありませんが非常にファンの多いタイトルです。それを「英国王のスピーチ」や「レ・ミゼラブル」などを手掛けたトム・フーパーの手で初めて映画化されました。
日本公開の前からアメリカでの酷評が伝わってきており、世界市場では既に惨憺たる結果となっていることが報じられている中での封切りとなりました。そうなるとむしろ気になってしまうのが映画ファンの性(サガ)。ということで、ホイホイ観に行ってしまいました。
はっきり言って酷評されたのも良く分かる、相当に変な映画です、コレ。観る前はジェリクルキャッツたちの擬人化のビジュアライズのセンスが理由の一つかとも思われましたが実際観てみるとそうではないことが分かります。何でも擬人化してしまう日本的な感性の前ではこのくらいなら特に問題ではないといえるでしょう。むしろ問題は別のところ。脚色の方向性がおかしいというか、音楽は良いのにそれぞれがぶつ切りになってしまいクライマックスへ向けて物語や感情が積み上がっていかないのです。役者と観客が同じ空間の中にいる舞台劇であれば乗り越えられたであろう「壁」が大きく立ちはだかっている印象です。
もう一つ、なまじ出演者の方々が一人残らずできる俳優が揃っているからこその妙な弊害が起きている作品でもあります。
実はミュージカルではつきもののアンサンブル、いわゆるガヤとかバックコーラスとかそういう人たちですが、それがネズミだったりゴキブリに扮していて、早い話がそれらも擬人化されている上に度々猫たちがそれらを食べるシーンが登場したりするのですが、これらが身体能力の高い俳優たちにかかると妙に艶めかしいのです。極め付きはマタタビを浴びせられた猫たちがトリップして海老反ったりするシーンもあるのですが、どこか乱交パーティーのように見えてしまいレーティング指定はかかっていないのにちょっとお子様に見せられる感じになっていません(笑)
一方で最早スタンダードナンバーの一つと言える「メモリー」を始め音楽の外れはほとんどなく、だからこそ感情の持って行き場に困るという不協和音が全編を貫く逸品です。
超大作クラスの予算をかけてこれ以上ない珍品が出来上がる現象に対して「バトルフィールド・アース」(2000年製作)が長らく引き合いに出されてきましたが、どうやらそれに匹敵する代物が誕生してしまったかもしれません。張り切って薦められるものではないですが、ここまでの珍品は今後カルト的な人気を勝ち得る可能性もあり、そういう意味では特にボンクラ映画を愛する向きには先物買い的な鑑賞をお薦めしたい逸品です。あと私自身キャッツという作品に思い入れが無いので何ですが、ミュージカルファンやキャッツファンにはどのように映るのかちょっと聞いてみたい(笑)