何か悪い物でも食べてしまったのかあるいは疲れでも溜まってたのか唐突に体調を崩してしまい、昨日は1日アマプラで映画をただ垂れ流しながらひたすら寝て過ごしてました。
こんなに寝たのもちょっと久しぶり。
こんばんは、小島@監督です。
幸い明けて今日はすっかり回復して事なきを得ました。変に拗らせるようなヤツじゃなくてホッとしています。
さて、今回の映画は「ブラック・ウィドウ」です。
「シビル・ウォー」の後、瓦解したアベンジャーズ。「ブラック・ウィドウ」と呼ばれるナターシャ(スカーレット・ヨハンソン)はソコヴィア協定違反を問われ追われる身となっていた。ノルウェーに潜伏したナターシャは協力者であるメイソン(O・T・ファングベル)から以前の隠れ家に残してあった私物を受け取る。
その夜、ナターシャは突如謎の暗殺者「タスク・マスター」の襲撃を受ける。苦戦するナターシャだがそのさなかにタスク・マスターの狙いがメイソンから渡された荷物にあることに気づき、隙を突いて局面を脱することに成功した。
謎の答えを求めてナターシャはブダペストに赴く。隠れ家として利用していたアパートに着くと、そこにはかつて姉妹として共に生活していたエレーナ(フローレンス・ピュー)がいた。
「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」から2年ぶりに「マーベル・シネマティック・ユニバース」がスクリーンに帰ってきました。最初の緊急事態宣言が明けた昨年5~7月頃、一時休館から明けたもののまともに新作の出揃わない中でMCUの旧作が一部リバイバル上映されていたこともあったのでこの2年間全く上映されなかったわけではないのですが、長く大作映画の顔でもあったMCUの新作の公開は、まさに「待望の」と言って差し支えないでしょう。
公開時期に大きく間が空いてしまいましたが、先の「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」が「アベンジャーズ/エンドゲーム」のエピローグかつ新たなフェイズのプロローグを担っていたのに対し、今回の「ブラック・ウィドウ」は時系列的には「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」の後で「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の前、という位置付けで一種のスピンオフ映画のような印象を受けます。
MCUのシリーズの中でかなり初期から登場していながら恐らく意図的にキャラクターを断片的にしか掘り下げてこなかったブラック・ウィドウをメインに据え、タフにして繊細なナターシャの根底を描きます。
一種のスパイアクション的な物語の構図の中で描かれるのは「アベンジャーズ」と、かつて「潜入任務」として共に暮らしたアレクセイ(デヴィット・ハーパー)、メリーナ(レイチェル・ワイズ)、エレーナとの「疑似家族」、この2つを心の底で自分の「ファミリー」だと感じるナターシャの心の動きです。この映画を撮るにあたり抜擢されたのがオーストラリアの女流監督ケイト・ショートランドという人選が活き、派手なアクションを見せる一方で情感の描写が光る作品になりました。
この疑似家族のキャラクターの立ちっぷりが素晴らしく、中でもブラック・ウィドウ独特の着地ポーズをくさしてみせるエレーナのくだりが最高。今後MCUの過去作品を観返したりしたらブラック・ウィドウがあのポーズ取る度に笑ってしまいそうです。
時にコミカルに、時にエモーショナルに、そしてダイナミックに。王道とも言える娯楽作品で是非多くの方に観て欲しい1本。マーベルというか、ディズニーが昨年以降急速に配信主体に舵を切ってしまっており、「101」のヴィランを主役にした「クルエラ」もかなり小さい規模での公開となったほかアニメ映画「ソウルフル・ワールド」に至っては劇場公開すらされないという中でこの「ブラック・ウィドウ」も当初予定より公開規模が縮小されてしまっているのが現実ですが、こういう作品こそスクリーンで観る醍醐味に満ちていると思うので、できればなるたけ縮小はしないで欲しいですね。
こんなに寝たのもちょっと久しぶり。
こんばんは、小島@監督です。
幸い明けて今日はすっかり回復して事なきを得ました。変に拗らせるようなヤツじゃなくてホッとしています。
さて、今回の映画は「ブラック・ウィドウ」です。
「シビル・ウォー」の後、瓦解したアベンジャーズ。「ブラック・ウィドウ」と呼ばれるナターシャ(スカーレット・ヨハンソン)はソコヴィア協定違反を問われ追われる身となっていた。ノルウェーに潜伏したナターシャは協力者であるメイソン(O・T・ファングベル)から以前の隠れ家に残してあった私物を受け取る。
その夜、ナターシャは突如謎の暗殺者「タスク・マスター」の襲撃を受ける。苦戦するナターシャだがそのさなかにタスク・マスターの狙いがメイソンから渡された荷物にあることに気づき、隙を突いて局面を脱することに成功した。
謎の答えを求めてナターシャはブダペストに赴く。隠れ家として利用していたアパートに着くと、そこにはかつて姉妹として共に生活していたエレーナ(フローレンス・ピュー)がいた。
「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」から2年ぶりに「マーベル・シネマティック・ユニバース」がスクリーンに帰ってきました。最初の緊急事態宣言が明けた昨年5~7月頃、一時休館から明けたもののまともに新作の出揃わない中でMCUの旧作が一部リバイバル上映されていたこともあったのでこの2年間全く上映されなかったわけではないのですが、長く大作映画の顔でもあったMCUの新作の公開は、まさに「待望の」と言って差し支えないでしょう。
公開時期に大きく間が空いてしまいましたが、先の「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」が「アベンジャーズ/エンドゲーム」のエピローグかつ新たなフェイズのプロローグを担っていたのに対し、今回の「ブラック・ウィドウ」は時系列的には「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」の後で「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の前、という位置付けで一種のスピンオフ映画のような印象を受けます。
MCUのシリーズの中でかなり初期から登場していながら恐らく意図的にキャラクターを断片的にしか掘り下げてこなかったブラック・ウィドウをメインに据え、タフにして繊細なナターシャの根底を描きます。
一種のスパイアクション的な物語の構図の中で描かれるのは「アベンジャーズ」と、かつて「潜入任務」として共に暮らしたアレクセイ(デヴィット・ハーパー)、メリーナ(レイチェル・ワイズ)、エレーナとの「疑似家族」、この2つを心の底で自分の「ファミリー」だと感じるナターシャの心の動きです。この映画を撮るにあたり抜擢されたのがオーストラリアの女流監督ケイト・ショートランドという人選が活き、派手なアクションを見せる一方で情感の描写が光る作品になりました。
この疑似家族のキャラクターの立ちっぷりが素晴らしく、中でもブラック・ウィドウ独特の着地ポーズをくさしてみせるエレーナのくだりが最高。今後MCUの過去作品を観返したりしたらブラック・ウィドウがあのポーズ取る度に笑ってしまいそうです。
時にコミカルに、時にエモーショナルに、そしてダイナミックに。王道とも言える娯楽作品で是非多くの方に観て欲しい1本。マーベルというか、ディズニーが昨年以降急速に配信主体に舵を切ってしまっており、「101」のヴィランを主役にした「クルエラ」もかなり小さい規模での公開となったほかアニメ映画「ソウルフル・ワールド」に至っては劇場公開すらされないという中でこの「ブラック・ウィドウ」も当初予定より公開規模が縮小されてしまっているのが現実ですが、こういう作品こそスクリーンで観る醍醐味に満ちていると思うので、できればなるたけ縮小はしないで欲しいですね。
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「何か席がまだ空いてたから」というのが一番の理由でしたが、昨日「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」の舞台挨拶LV付上映に行ってきました。「上田麗奈が見たかっただけじゃないの?」と言われたら否定はしませんがね!村瀬修功監督が音響へのこだわりなどを語っていたり封切り前にハサウェイ役小野賢章がバラエティー番組で激辛料理を食べていたのを踏まえて次作ではギギ役上田麗奈やケネス役諏訪部順一が番宣で体張ることになりそうとおどけたりと30分余りがあっという間に過ぎていきました。そう言えば、ライブビューイングとは言え舞台挨拶なんてのを見るのも久しぶり。
こんばんは、小島@監督です。
次はライブビューイングじゃなくて本会場で舞台挨拶観たいものです。
さて、今回の映画は「ゴジラvsコング」です。
ゴジラとギドラが死闘を繰り広げてから3年後、髑髏島にあるモナーク基地ではゴジラの太古からの宿敵であるコングの存在をゴジラから隠すため、島の環境を再現したドームにコングを収容していた。しかし、コングの体長は100mを超え、最早ドームには収容できなくなりつつあった。コングと心を通わせられる少女ジア(ケイリー・ホトル)と、孤児であるジアを養子とした言語学者アイリーン・アンドリュース(レベッカ・ホール)は日々ストレスを募らせるコングの様子を心配そうに見つめていた。
一方、アメリカでは巨大企業エイペックス・サイバネティクス社が何か陰謀を企んでいるに違いないとバーニー・ヘイズ(ブライアン・タイリー・ヘンリー)は技師として潜入し、その調査の様子をネットで放送を続けていた。ある時、3年の沈黙を破りゴジラが出現、エイペックス社を襲撃した。破壊された社内でバーニーは異様な姿の謎めいた機械を発見する。
1962年に製作された、日米が生んだモンスターの2大巨頭が激突した「キングコング対ゴジラ」は、後に「怪獣プロレス」と呼称されることになるスタイルが本格的に確立した作品としてその名を残しています。それから60年、今度はハリウッドの超大作映画として再戦の時がやってきました。2014年製作の「GODZILLA」から始まる、ワーナーブラザーズとレジェンダリー・ピクチャーズ、東宝が提携したクロスオーバー・プロジェクト「モンスターバース」の4作目かつ一つの到達点として遂にゴジラとキングコングの頂上決戦が描かれる作品の登場です。本来なら昨年の公開予定でしたがこちらもご多分に漏れずコロナ禍で度重なる延期を余儀なくされ世界各国に大きく遅れて先日ようやく封切りとなりました。これまでの3作品で主軸に描かれた2大スターのタイマンバトルというクライマックスに相応しいイベント性の高い作品に仕上がっています。
結構凝った設定や構成をしている割にはスピーディーにそれらを畳み掛けて「人間が主役になり切らない」ようにして巨大モンスターのキャラクターを前面に出す「モンスターバース」の作風を踏襲しつつ、圧倒的なスケール感でモンスターバトルの極地を描きます。
恐らく人間ドラマな部分は撮るだけ撮って編集段階でかなりカットしてるんじゃないかと思いますが、結果的にスピード感は増しているものの展開はかなり大味な話になっています。いますが、その大味ぶりが良いというか雑な割には何だかワクワクしてしまったというか。また作中で登場するメカのデザインのダサカッコ良さ具合も絶妙で、個人的には丁度直撃だった1989年製作の「ゴジラVSビオランテ」から1995年の「ゴジラVSデストロイア」まで続いたいわゆる「VSシリーズ」と似た匂いを嗅ぎ取ってすっかり楽しめてしまいました。
そのゴジラとコングのバトルシーンも最初の海上戦闘から終盤の都市部での夜間戦闘まで凝ったアイディアと演出の宝庫。スーツアクション主体だった日本では思いついてもやれなかったであろうアクションもバンバン登場しますし、「モンスターバース」はシリーズを通して巨大怪獣の「巨大感」を徹底して意識した画作りをしているのがここでも活かされており、スクリーンを全面使った濃い画面が頻発するのが心底楽しいです。
もう一つ、意外な拾い物として物語のキーパーソンとして登場する少女ジア役ケイリー・ホトルの演技があります。何とこれが長編映画初出演。聴覚障害者で手話を以てコングと会話するジアと同様ケイリー・ホトル自身も聴覚障害者だそうで、聴覚障害者コミュニティへの関心を高めてもらうために活動している人物でもあり先々の活躍が楽しみです。
人によっては「スクリーンを全面使いきる」タイプのスペクタクル映画からかなり離れてしまっている方もいるんじゃないかと思います。物語こそ馬鹿馬鹿しいくらいですが、このスケール感はやはり映画館でこそ。自宅で観るのでは絶対に味わえない迫力をどうぞご堪能いただきたいですね。
こんばんは、小島@監督です。
次はライブビューイングじゃなくて本会場で舞台挨拶観たいものです。
さて、今回の映画は「ゴジラvsコング」です。
ゴジラとギドラが死闘を繰り広げてから3年後、髑髏島にあるモナーク基地ではゴジラの太古からの宿敵であるコングの存在をゴジラから隠すため、島の環境を再現したドームにコングを収容していた。しかし、コングの体長は100mを超え、最早ドームには収容できなくなりつつあった。コングと心を通わせられる少女ジア(ケイリー・ホトル)と、孤児であるジアを養子とした言語学者アイリーン・アンドリュース(レベッカ・ホール)は日々ストレスを募らせるコングの様子を心配そうに見つめていた。
一方、アメリカでは巨大企業エイペックス・サイバネティクス社が何か陰謀を企んでいるに違いないとバーニー・ヘイズ(ブライアン・タイリー・ヘンリー)は技師として潜入し、その調査の様子をネットで放送を続けていた。ある時、3年の沈黙を破りゴジラが出現、エイペックス社を襲撃した。破壊された社内でバーニーは異様な姿の謎めいた機械を発見する。
1962年に製作された、日米が生んだモンスターの2大巨頭が激突した「キングコング対ゴジラ」は、後に「怪獣プロレス」と呼称されることになるスタイルが本格的に確立した作品としてその名を残しています。それから60年、今度はハリウッドの超大作映画として再戦の時がやってきました。2014年製作の「GODZILLA」から始まる、ワーナーブラザーズとレジェンダリー・ピクチャーズ、東宝が提携したクロスオーバー・プロジェクト「モンスターバース」の4作目かつ一つの到達点として遂にゴジラとキングコングの頂上決戦が描かれる作品の登場です。本来なら昨年の公開予定でしたがこちらもご多分に漏れずコロナ禍で度重なる延期を余儀なくされ世界各国に大きく遅れて先日ようやく封切りとなりました。これまでの3作品で主軸に描かれた2大スターのタイマンバトルというクライマックスに相応しいイベント性の高い作品に仕上がっています。
結構凝った設定や構成をしている割にはスピーディーにそれらを畳み掛けて「人間が主役になり切らない」ようにして巨大モンスターのキャラクターを前面に出す「モンスターバース」の作風を踏襲しつつ、圧倒的なスケール感でモンスターバトルの極地を描きます。
恐らく人間ドラマな部分は撮るだけ撮って編集段階でかなりカットしてるんじゃないかと思いますが、結果的にスピード感は増しているものの展開はかなり大味な話になっています。いますが、その大味ぶりが良いというか雑な割には何だかワクワクしてしまったというか。また作中で登場するメカのデザインのダサカッコ良さ具合も絶妙で、個人的には丁度直撃だった1989年製作の「ゴジラVSビオランテ」から1995年の「ゴジラVSデストロイア」まで続いたいわゆる「VSシリーズ」と似た匂いを嗅ぎ取ってすっかり楽しめてしまいました。
そのゴジラとコングのバトルシーンも最初の海上戦闘から終盤の都市部での夜間戦闘まで凝ったアイディアと演出の宝庫。スーツアクション主体だった日本では思いついてもやれなかったであろうアクションもバンバン登場しますし、「モンスターバース」はシリーズを通して巨大怪獣の「巨大感」を徹底して意識した画作りをしているのがここでも活かされており、スクリーンを全面使った濃い画面が頻発するのが心底楽しいです。
もう一つ、意外な拾い物として物語のキーパーソンとして登場する少女ジア役ケイリー・ホトルの演技があります。何とこれが長編映画初出演。聴覚障害者で手話を以てコングと会話するジアと同様ケイリー・ホトル自身も聴覚障害者だそうで、聴覚障害者コミュニティへの関心を高めてもらうために活動している人物でもあり先々の活躍が楽しみです。
人によっては「スクリーンを全面使いきる」タイプのスペクタクル映画からかなり離れてしまっている方もいるんじゃないかと思います。物語こそ馬鹿馬鹿しいくらいですが、このスケール感はやはり映画館でこそ。自宅で観るのでは絶対に味わえない迫力をどうぞご堪能いただきたいですね。
一昨日、先月開催しながら1か月の期間を置いてようやくアーカイブ配信が始まった「アイドルマスターミリオンライブ7thLIVE」の映像を肴に数人で酒や食べ物を持ち寄って酒盛りしてました。こういうことから長く遠ざかっていたのでとても久しぶりに感じます。ライブの方も2Daysの初日の方は仕事で観れずじまいで「ぐぬぬ…」となっていたところだったので観れて何よりでした。
こんばんは、小島@監督です。
気楽にこういうことをできる日々が戻ってくると良いのですが。
さて、今回の映画は「映画大好きポンポさん」です。
映画の都ニャリウッド。そこで敏腕プロデューサーであるジョエル・ダヴィドビッチ・ポンポネット、通称「ポンポさん」(声・小原好美)の下でジーン・フィニ(声・清水尋也)はアシスタントを務めていた。映画監督を夢見ているジーンだったが、根暗な自分の性格では無理と諦めていた。そんなジーンにある日ポンポさんは新作映画のCM製作を担当させる。突然のことに驚くジーンだったがジーンは次第に作業に没頭していく。完成したCMの出来栄えに満足したポンポさんは、今度はベテラン俳優マーティン・ブラドック(声・大塚明夫)10年ぶりの主演作の監督にジーンを抜擢するのだった。
映画自体を題材にした映画は古くからあり、早い物では1920年代には映写技師を主人公に据えた「キートンの探偵学入門」という作品が登場しています。1952年にはサイレントからトーキーに移行しつつあるハリウッドを舞台にしたミュージカル「雨に唄えば」や1989年にはシチリア島の映画館を舞台にした「ニュー・シネマ・パラダイス」と言った名作が誕生している一方で、撮影助手を務める青年の異常な性癖を描く「血を吸うカメラ」(1960年)や、近年でもゾンビ映画製作現場のドタバタを描く「カメラを止めるな!」が話題になったりと怪作にも事欠きません。
この映画の原作コミック「映画大好きポンポさん」は、原作者杉谷庄吾が2017年にWEBで無料公開したのをきっかけに、その後書籍化された経緯を持つ作品です。近年Twitterなどで公開しその反響を契機としてその後雑誌連載、書籍化、あるいは映像化という流れに至る作品が相次いでいますがこの「ポンポさん」もそういう系譜の中にある作品です。映画を題材にしている作品の映像化だけあって媒体を映画とするのは当然の帰結とも言えるでしょう。
この手の作品、特にアニメだと高校や専門学校などを舞台にしていることが多いのですがこの映画ではハリウッドを模した「ニャリウッド」を舞台に実写映画製作の内幕を描きますが、コレは案外かなり珍しい部類に入るのではと思います。
類まれな才能と豊富な人脈を持ちながら何故か手掛ける映画は90分以内のB級映画ばかりというポンポさんのキャラクターは、「B級映画の帝王」と呼ばれたロジャー・コーマンを彷彿とさせます。そのロジャー・コーマン、低予算で映画を作るためにスタッフや俳優に大学を出たばかりの若者を多数起用したことでも知られており、そうやってキャリアをスタートした人物の中にはジェームズ・キャメロンやマーティン・スコセッシ、ロバート・デ・ニーロやジャック・ニコルソンなど後に一線級で活躍することになる人物が数多くいます。作中のポンポさんもそれに倣ってか根暗な映画オタクのジーンを監督を抜擢したりオーディションに落ちてばかりのナタリー・ウッドワード(声・大谷凛香)を主演に抜擢したりと芽が出ずにいる才能を見出していきます。
もう一つ、この作品最大の特徴は、映画製作の中において「編集」という部分にかなりの重きを置いている点です。恐らくここをクローズアップしている作品は過去に類を見ないのではないでしょうか。それを象徴するところとして作中にジーンが「ニュー・シネマ・パラダイス」を観るくだりがあります。サラッと流しているシーンなのですがこの映画は編集が持つマジックを体感させてくれる作品で、完全版(173分)とインターナショナル版(123分)で上映時間が実に50分もの違いがあり、映画の構成も変わっているのでまるで印象が変わります。しかも世界的に評価が高いのは時間の短いインターナショナル版の方、というのも面白いところ。この「ポンポさん」を観て興味が湧いた方は是非両バージョンとも見て頂きたい逸品で、編集の奥深さを味わってみて欲しいところです。
至上命題とも言うべき(何故至上命題かは見てご確認のほどを)上映時間90分にもちゃんと収まっており、狂気にも似た創作のエネルギーをアッパーなテンポで畳み掛ける楽しい作品に仕上がっています。興行成績も好調なようで今週末から上映館が拡大されるとのこと、このピーキーな作品を是非スクリーンで味わって欲しいところ。そしてこれをきっかけに映画に興味を持って頂けるようになると嬉しいですね。
こんばんは、小島@監督です。
気楽にこういうことをできる日々が戻ってくると良いのですが。
さて、今回の映画は「映画大好きポンポさん」です。
映画の都ニャリウッド。そこで敏腕プロデューサーであるジョエル・ダヴィドビッチ・ポンポネット、通称「ポンポさん」(声・小原好美)の下でジーン・フィニ(声・清水尋也)はアシスタントを務めていた。映画監督を夢見ているジーンだったが、根暗な自分の性格では無理と諦めていた。そんなジーンにある日ポンポさんは新作映画のCM製作を担当させる。突然のことに驚くジーンだったがジーンは次第に作業に没頭していく。完成したCMの出来栄えに満足したポンポさんは、今度はベテラン俳優マーティン・ブラドック(声・大塚明夫)10年ぶりの主演作の監督にジーンを抜擢するのだった。
映画自体を題材にした映画は古くからあり、早い物では1920年代には映写技師を主人公に据えた「キートンの探偵学入門」という作品が登場しています。1952年にはサイレントからトーキーに移行しつつあるハリウッドを舞台にしたミュージカル「雨に唄えば」や1989年にはシチリア島の映画館を舞台にした「ニュー・シネマ・パラダイス」と言った名作が誕生している一方で、撮影助手を務める青年の異常な性癖を描く「血を吸うカメラ」(1960年)や、近年でもゾンビ映画製作現場のドタバタを描く「カメラを止めるな!」が話題になったりと怪作にも事欠きません。
この映画の原作コミック「映画大好きポンポさん」は、原作者杉谷庄吾が2017年にWEBで無料公開したのをきっかけに、その後書籍化された経緯を持つ作品です。近年Twitterなどで公開しその反響を契機としてその後雑誌連載、書籍化、あるいは映像化という流れに至る作品が相次いでいますがこの「ポンポさん」もそういう系譜の中にある作品です。映画を題材にしている作品の映像化だけあって媒体を映画とするのは当然の帰結とも言えるでしょう。
この手の作品、特にアニメだと高校や専門学校などを舞台にしていることが多いのですがこの映画ではハリウッドを模した「ニャリウッド」を舞台に実写映画製作の内幕を描きますが、コレは案外かなり珍しい部類に入るのではと思います。
類まれな才能と豊富な人脈を持ちながら何故か手掛ける映画は90分以内のB級映画ばかりというポンポさんのキャラクターは、「B級映画の帝王」と呼ばれたロジャー・コーマンを彷彿とさせます。そのロジャー・コーマン、低予算で映画を作るためにスタッフや俳優に大学を出たばかりの若者を多数起用したことでも知られており、そうやってキャリアをスタートした人物の中にはジェームズ・キャメロンやマーティン・スコセッシ、ロバート・デ・ニーロやジャック・ニコルソンなど後に一線級で活躍することになる人物が数多くいます。作中のポンポさんもそれに倣ってか根暗な映画オタクのジーンを監督を抜擢したりオーディションに落ちてばかりのナタリー・ウッドワード(声・大谷凛香)を主演に抜擢したりと芽が出ずにいる才能を見出していきます。
もう一つ、この作品最大の特徴は、映画製作の中において「編集」という部分にかなりの重きを置いている点です。恐らくここをクローズアップしている作品は過去に類を見ないのではないでしょうか。それを象徴するところとして作中にジーンが「ニュー・シネマ・パラダイス」を観るくだりがあります。サラッと流しているシーンなのですがこの映画は編集が持つマジックを体感させてくれる作品で、完全版(173分)とインターナショナル版(123分)で上映時間が実に50分もの違いがあり、映画の構成も変わっているのでまるで印象が変わります。しかも世界的に評価が高いのは時間の短いインターナショナル版の方、というのも面白いところ。この「ポンポさん」を観て興味が湧いた方は是非両バージョンとも見て頂きたい逸品で、編集の奥深さを味わってみて欲しいところです。
至上命題とも言うべき(何故至上命題かは見てご確認のほどを)上映時間90分にもちゃんと収まっており、狂気にも似た創作のエネルギーをアッパーなテンポで畳み掛ける楽しい作品に仕上がっています。興行成績も好調なようで今週末から上映館が拡大されるとのこと、このピーキーな作品を是非スクリーンで味わって欲しいところ。そしてこれをきっかけに映画に興味を持って頂けるようになると嬉しいですね。
昨年の秋からこっち、10か月くらいかけて昨日アニメ「銀河英雄伝説」全110話を完走しました。いつかちゃんと観たいと思いながらなかなか実現できずにいましたがようやく達成できました。ありがとうAmazonプライム(笑)完走してようやくこの物語が放つ普遍的な魅力に気づけたという一方、やっぱり10代から大学生くらいの内に履修しておけば良かったとも思ったり。
こんばんは、小島@監督です。
まだ余韻に浸り気味とは言え「外伝」全52話も残ってますし原作も未読なのでいろいろ道半ば。もうしばらく堪能できそうです。
さて、今回の映画は「トゥルーノース」です。
非営利団体「TED」のスタッフに促され、一人のアジア人男性が緊張の面持ちでステージに立ち、講演会が始まる。
男は語り始めた。「政治の話はしませんよ、代わりに物語をお伝えします。私の、家族の物語です…」
1995年、北朝鮮。パク一家はある日突然父が失踪し当局による家宅捜索を受けたのち、母ユリ、長男ヨハン、妹ミヒの3人はトラックで政治犯強制収容所へと連行された。冷徹なハン所長が支配する収容所で過酷な労働を強いられるヨハンたち。ある日ヨハンは、看守にレイプされ妊娠させられた母を理不尽に処刑され孤児となった少年・インスと出会う。
突然平穏な生活が終わりを告げ、理由もわからぬまま強制収容所へ送られ自由を奪われ、明日をも知れぬ状況へと追いやられる。しかもそれはホラーやサスペンスの導入部というわけではなく海を隔てたすぐ近くの国で今も実際に起こっている。一説には北朝鮮でそうやって政治犯として収容されている人は12万人にも上るそうです。そんなテーマを主軸に描かれたドキュメンタリータッチのアニメーションです。世界を見渡せば、ポル・ポト時代のカンボジアの強制収容所を舞台にした「FUNAN/フナン」や、タリバン政権下のアフガニスタンで抑圧された家族の姿を描く「ブレッドウィナー」など、近現代の破壊や抑圧の歴史を戯画化しアニメ化する試みが近年相次いでいます。こういうことは時として実写よりアニメの方がより多くの人に伝わりやすくなることがあります。
映画が始まると、恐らく多くの方がそのビジュアルにちょっと驚くのではないでしょうか。実写と見紛う程のリアルな映像もCGアニメで作れるご時世に、妙にパキパキしたというか2000年代初頭くらいのPS2ソフトみたいなローポリゴン調のビジュアルをしているのです。始めは「予算や製作体制の問題なのか?」と思いましたがすぐにそうではないことに気づきます。リアルに近づけてしまえば、あるいは実写でやってしまうと正視に耐え難い状況が次々と描かれるから、敢えて強めのデフォルメをかけたことが分かります。
物語の中心となるのはパク一家の長男・ヨハン。過酷な状況下でも機転で切り抜けようとするヨハンは看守の手足として囚人を監視する立場を得、同時に食料などに便宜を図ってもらえる地位に着きます。が、そのことによる代償も受けることになります。人間の持つ最も善き面と最も悪しき面の狭間でヨハンの人格は形成されていくことになります。それは収容された政治犯たちだけではなくそれを監視する看守ら体制側にも逃れ得ぬ命題であり、作中にはこの狭間で均衡を失っていく青年看守も登場します。
興味深いことにパク一家は帰還事業(1950~80年代に行われた在日朝鮮人とその家族を北朝鮮へと移住させた事業)によって北朝鮮へ移り住んだ一家であることが示されます。また、作中には日本から誘拐されてきて用済みとなった拉致被害者も登場します。哀しいかな、日本から縁遠い話ではないことを突き付けられてしまうのです。
北朝鮮という国家自体はその存在を否定している政治犯強制収容所、監督である清水ハン栄治氏は、脱北者たちのインタビューやリサーチを重ね作り上げたこの映画を「告発のための作品」としてではなく「抑止のための作品」として製作したそうです。かつて敗戦間近のナチスドイツで収容所で大虐殺が起きたように、もしも北朝鮮という国から独裁体制が消えた時、あるいは北朝鮮が世界に開かれた時に「無かったこと」にさせないため。だからこそ「政治の話はしませんよ、代わりに物語をお伝えします」という冒頭のセリフが活きてきます。ここまでの想いで作られた映画というのもなかなか無いのではないかと思います。しかも「物語をお伝えします」の言葉通りに、これほどヘビーな題材を扱う作品でありながらエンターテインメントとしても極めて優れた出来栄えをしており、はっきり言って凄まじいエネルギーを感じる映画になっています。
これぞまさに「今観るべき映画」でしょう。一人でも多くの方に観て欲しいと願うと同時にせめてこの作品が今も収容されている12万人という人たちの希望の光となって欲しいと祈って止みません。
こんばんは、小島@監督です。
まだ余韻に浸り気味とは言え「外伝」全52話も残ってますし原作も未読なのでいろいろ道半ば。もうしばらく堪能できそうです。
さて、今回の映画は「トゥルーノース」です。
非営利団体「TED」のスタッフに促され、一人のアジア人男性が緊張の面持ちでステージに立ち、講演会が始まる。
男は語り始めた。「政治の話はしませんよ、代わりに物語をお伝えします。私の、家族の物語です…」
1995年、北朝鮮。パク一家はある日突然父が失踪し当局による家宅捜索を受けたのち、母ユリ、長男ヨハン、妹ミヒの3人はトラックで政治犯強制収容所へと連行された。冷徹なハン所長が支配する収容所で過酷な労働を強いられるヨハンたち。ある日ヨハンは、看守にレイプされ妊娠させられた母を理不尽に処刑され孤児となった少年・インスと出会う。
突然平穏な生活が終わりを告げ、理由もわからぬまま強制収容所へ送られ自由を奪われ、明日をも知れぬ状況へと追いやられる。しかもそれはホラーやサスペンスの導入部というわけではなく海を隔てたすぐ近くの国で今も実際に起こっている。一説には北朝鮮でそうやって政治犯として収容されている人は12万人にも上るそうです。そんなテーマを主軸に描かれたドキュメンタリータッチのアニメーションです。世界を見渡せば、ポル・ポト時代のカンボジアの強制収容所を舞台にした「FUNAN/フナン」や、タリバン政権下のアフガニスタンで抑圧された家族の姿を描く「ブレッドウィナー」など、近現代の破壊や抑圧の歴史を戯画化しアニメ化する試みが近年相次いでいます。こういうことは時として実写よりアニメの方がより多くの人に伝わりやすくなることがあります。
映画が始まると、恐らく多くの方がそのビジュアルにちょっと驚くのではないでしょうか。実写と見紛う程のリアルな映像もCGアニメで作れるご時世に、妙にパキパキしたというか2000年代初頭くらいのPS2ソフトみたいなローポリゴン調のビジュアルをしているのです。始めは「予算や製作体制の問題なのか?」と思いましたがすぐにそうではないことに気づきます。リアルに近づけてしまえば、あるいは実写でやってしまうと正視に耐え難い状況が次々と描かれるから、敢えて強めのデフォルメをかけたことが分かります。
物語の中心となるのはパク一家の長男・ヨハン。過酷な状況下でも機転で切り抜けようとするヨハンは看守の手足として囚人を監視する立場を得、同時に食料などに便宜を図ってもらえる地位に着きます。が、そのことによる代償も受けることになります。人間の持つ最も善き面と最も悪しき面の狭間でヨハンの人格は形成されていくことになります。それは収容された政治犯たちだけではなくそれを監視する看守ら体制側にも逃れ得ぬ命題であり、作中にはこの狭間で均衡を失っていく青年看守も登場します。
興味深いことにパク一家は帰還事業(1950~80年代に行われた在日朝鮮人とその家族を北朝鮮へと移住させた事業)によって北朝鮮へ移り住んだ一家であることが示されます。また、作中には日本から誘拐されてきて用済みとなった拉致被害者も登場します。哀しいかな、日本から縁遠い話ではないことを突き付けられてしまうのです。
北朝鮮という国家自体はその存在を否定している政治犯強制収容所、監督である清水ハン栄治氏は、脱北者たちのインタビューやリサーチを重ね作り上げたこの映画を「告発のための作品」としてではなく「抑止のための作品」として製作したそうです。かつて敗戦間近のナチスドイツで収容所で大虐殺が起きたように、もしも北朝鮮という国から独裁体制が消えた時、あるいは北朝鮮が世界に開かれた時に「無かったこと」にさせないため。だからこそ「政治の話はしませんよ、代わりに物語をお伝えします」という冒頭のセリフが活きてきます。ここまでの想いで作られた映画というのもなかなか無いのではないかと思います。しかも「物語をお伝えします」の言葉通りに、これほどヘビーな題材を扱う作品でありながらエンターテインメントとしても極めて優れた出来栄えをしており、はっきり言って凄まじいエネルギーを感じる映画になっています。
これぞまさに「今観るべき映画」でしょう。一人でも多くの方に観て欲しいと願うと同時にせめてこの作品が今も収容されている12万人という人たちの希望の光となって欲しいと祈って止みません。
職場では何度か使ったことがあるのですが、プライベートではほぼ使ったことが無いに等しいZoomで先日初オンライントーク参加してました。Discordなら時折使ってるのですが、ツールが変わると勝手も変わるのでそもそも始めるまでに戸惑ってしまったり。でも使えるものが増えるのは楽しいですね。
こんばんは、小島@監督です。
だいぶ長いこと会えてない人たちだけど、いずれオンラインじゃなく酒を酌み交わしたいものですね。
さて、今回の映画は「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」です。
宇宙世紀0105年、シャア・アズナブルがアクシズ落としを敢行した第二次ネオ・ジオン戦争が終結してより12年後、地球連邦政府の腐敗は更に進み、増え過ぎた人口を強制的に宇宙へ連行する「人狩り」まで行われるようになっていた。その連邦政府に対し、政府高官を暗殺する手段で抵抗を開始する組織が誕生した。それが「マフティー」である。
地球圏の重要な政策が話し合われる「アデレード会議」、その参加者たちを乗せた往還シャトル「ハウンゼン365便」、ハサウェイ・ノア(声・小野賢章)はそこに乗っていた。同じ便にはダバオ空軍基地司令に赴任するため地球に向かう連邦軍将校ケネス・スレッグ大佐(声・諏訪部順一)と予知に近い洞察力を持つ謎めいた美少女ギギ・アンダルシア(声・上田麗奈)も同乗していた。そこに、「マフティー」を名乗るハイジャック犯たちが急襲、シャトルを占拠したのだった…
「逆襲のシャア」から12年後の世界を舞台にした「機動戦士ガンダム」を手掛けた富野由悠季監督自身の手による小説「閃光のハサウェイ」を原作とし三部作の予定で映像化するプロジェクト、今作はその1作目に当たる映画です。「Gジェネレーションズ」などゲームでは何度か登場していますが長くアニメ化が熱望されてきました。当初は昨年公開予定でしたがコロナ禍により延期を余儀なくされ、その後も度々再延期となったため無期延期となりはすまいかとちょっと心配しましたが無事公開されて少しホッとしています。
もう少し作品の沿革を語ると、原作小説「閃光のハサウェイ」は厳密には映画「逆襲のシャア」の続編ではありません。「逆襲のシャア」のシナリオ第1稿をベースにした小説「ベルトーチカ・チルドレン」の続編になります。更に言えば富野由悠季監督、映画の方の「逆襲のシャア」に沿ったストーリーラインに前日譚などのエピソードを大幅に追加した「ハイ・ストリーマー」という小説も書いています。このややこしい辺りをちゃんと意識しているというか、今回の映画では「小説の映像化」という体を取りながらもアニメの続編としても観られるように上手くセリフが工夫されています。
また、富野由悠季監督作品というのは独特のリズム感のダイアローグをしているのですが、今作のシナリオはこの癖みたいなものを原作のテイストを残しつつも上手く匂いを消しているような印象を受け、新しい観客も取り入れたい作り手の意識みたいなものが感じ取れます。
映画の方は期待値の高さを裏切らない、実にハイカロリーな映像を楽しめる1本です。キャラクターはどこまでも端正に、モビルスーツのバトルシーンはダイナミックに。イメージビジュアルや撮影ボードをフル活用し細部に至るまで綿密に設計された画面が全編に渡って展開します。「ウィッチハンターロビン」や「虐殺器官」など洋画的な雰囲気を持ったスタイリッシュな作風で知られる村瀬修功監督の手腕が遺憾なく発揮された映像と言えるでしょう。
テロリズムとの戦い(というか主役がテロリスト側)を主軸にしているからかモビルスーツの戦闘シーンが夜間戦闘が主体となっているのですが、高精細な背景美術に支えられたハイスピードなバトルシークエンスは「初見ではちょっと目で追いきれなかった」という自分のダメさ加減はさておき(苦笑)、この夜間戦闘の画のキレは今後のガンダムシリーズ、引いてはロボットアニメの一つの指針となるのではないでしょうか。そう思わせられてしまうくらいのパワフルなシーンが展開します。30年以上前に書かれた小説ながら国家間の戦闘の次にはテロリズムとの戦いに移行していく様を看破しているあたり、むしろ現在でこそ物語に入りやすい骨格をしているのではないでしょうか。
もう一つ、これは個人的にツボだった箇所なのですが、ヒロイン・ギギ・アンダルシア役上田麗奈の演技が絶品です。近年は多彩な役をこなしその演技力に定評のある彼女ですが、今作の天然でハサウェイやケネスを振り回すギギ役はそんな彼女の代表作になりそうな雰囲気です。もちろん上田麗奈だけではなくハサウェイ役小野賢章、ケネス役諏訪部順一のほか津田健次郎、種崎敦美、早見沙織、山寺宏一など鉄板のキャスト陣をしており、また「逆襲のシャア」でハサウェイを演じた佐々木望も刑事警察機構調査部長ゲイス・H・ヒューゲスト役で出演しています。声優の顔の見えない演技ができる人たちが勢揃いしているのも手伝って、音の面でも没入度の高い作品となっています。
三部作の序章ということで、物語は本格的にエンジンがかかるところで終わってしまいますし第2作についてもまだ何の告知も無いのが現状ですが、それでも新たな誕生を告げるこの作品を、スクリーン全体を使い切る躍動感と共に是非堪能していただきたいですね。
こんばんは、小島@監督です。
だいぶ長いこと会えてない人たちだけど、いずれオンラインじゃなく酒を酌み交わしたいものですね。
さて、今回の映画は「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」です。
宇宙世紀0105年、シャア・アズナブルがアクシズ落としを敢行した第二次ネオ・ジオン戦争が終結してより12年後、地球連邦政府の腐敗は更に進み、増え過ぎた人口を強制的に宇宙へ連行する「人狩り」まで行われるようになっていた。その連邦政府に対し、政府高官を暗殺する手段で抵抗を開始する組織が誕生した。それが「マフティー」である。
地球圏の重要な政策が話し合われる「アデレード会議」、その参加者たちを乗せた往還シャトル「ハウンゼン365便」、ハサウェイ・ノア(声・小野賢章)はそこに乗っていた。同じ便にはダバオ空軍基地司令に赴任するため地球に向かう連邦軍将校ケネス・スレッグ大佐(声・諏訪部順一)と予知に近い洞察力を持つ謎めいた美少女ギギ・アンダルシア(声・上田麗奈)も同乗していた。そこに、「マフティー」を名乗るハイジャック犯たちが急襲、シャトルを占拠したのだった…
「逆襲のシャア」から12年後の世界を舞台にした「機動戦士ガンダム」を手掛けた富野由悠季監督自身の手による小説「閃光のハサウェイ」を原作とし三部作の予定で映像化するプロジェクト、今作はその1作目に当たる映画です。「Gジェネレーションズ」などゲームでは何度か登場していますが長くアニメ化が熱望されてきました。当初は昨年公開予定でしたがコロナ禍により延期を余儀なくされ、その後も度々再延期となったため無期延期となりはすまいかとちょっと心配しましたが無事公開されて少しホッとしています。
もう少し作品の沿革を語ると、原作小説「閃光のハサウェイ」は厳密には映画「逆襲のシャア」の続編ではありません。「逆襲のシャア」のシナリオ第1稿をベースにした小説「ベルトーチカ・チルドレン」の続編になります。更に言えば富野由悠季監督、映画の方の「逆襲のシャア」に沿ったストーリーラインに前日譚などのエピソードを大幅に追加した「ハイ・ストリーマー」という小説も書いています。このややこしい辺りをちゃんと意識しているというか、今回の映画では「小説の映像化」という体を取りながらもアニメの続編としても観られるように上手くセリフが工夫されています。
また、富野由悠季監督作品というのは独特のリズム感のダイアローグをしているのですが、今作のシナリオはこの癖みたいなものを原作のテイストを残しつつも上手く匂いを消しているような印象を受け、新しい観客も取り入れたい作り手の意識みたいなものが感じ取れます。
映画の方は期待値の高さを裏切らない、実にハイカロリーな映像を楽しめる1本です。キャラクターはどこまでも端正に、モビルスーツのバトルシーンはダイナミックに。イメージビジュアルや撮影ボードをフル活用し細部に至るまで綿密に設計された画面が全編に渡って展開します。「ウィッチハンターロビン」や「虐殺器官」など洋画的な雰囲気を持ったスタイリッシュな作風で知られる村瀬修功監督の手腕が遺憾なく発揮された映像と言えるでしょう。
テロリズムとの戦い(というか主役がテロリスト側)を主軸にしているからかモビルスーツの戦闘シーンが夜間戦闘が主体となっているのですが、高精細な背景美術に支えられたハイスピードなバトルシークエンスは「初見ではちょっと目で追いきれなかった」という自分のダメさ加減はさておき(苦笑)、この夜間戦闘の画のキレは今後のガンダムシリーズ、引いてはロボットアニメの一つの指針となるのではないでしょうか。そう思わせられてしまうくらいのパワフルなシーンが展開します。30年以上前に書かれた小説ながら国家間の戦闘の次にはテロリズムとの戦いに移行していく様を看破しているあたり、むしろ現在でこそ物語に入りやすい骨格をしているのではないでしょうか。
もう一つ、これは個人的にツボだった箇所なのですが、ヒロイン・ギギ・アンダルシア役上田麗奈の演技が絶品です。近年は多彩な役をこなしその演技力に定評のある彼女ですが、今作の天然でハサウェイやケネスを振り回すギギ役はそんな彼女の代表作になりそうな雰囲気です。もちろん上田麗奈だけではなくハサウェイ役小野賢章、ケネス役諏訪部順一のほか津田健次郎、種崎敦美、早見沙織、山寺宏一など鉄板のキャスト陣をしており、また「逆襲のシャア」でハサウェイを演じた佐々木望も刑事警察機構調査部長ゲイス・H・ヒューゲスト役で出演しています。声優の顔の見えない演技ができる人たちが勢揃いしているのも手伝って、音の面でも没入度の高い作品となっています。
三部作の序章ということで、物語は本格的にエンジンがかかるところで終わってしまいますし第2作についてもまだ何の告知も無いのが現状ですが、それでも新たな誕生を告げるこの作品を、スクリーン全体を使い切る躍動感と共に是非堪能していただきたいですね。
春アニメもそろそろ佳境を迎えつつあるところですが、今期個人的にとても新鮮な気持ちで楽しんでる作品があります。主舞台が岐阜県多治見市である「やくならマグカップも」です。多治見市は単純に自分の通勤途上であり、また亡父が闘病生活を送っていた頃、多治見市の病院に入院しており一時期毎日のように見舞いなどで通っていたため結構馴染みがある場所です。良く知ってる場所がアニメの「聖地」として全国放送されている、という状況がこれほど楽しいものだとは思ってもいず、何だか毎回ウキウキしながら観ています。
こんばんは、小島@監督です。
その内ブラブラ散歩しに行こう、何たって定期券の範囲で行けるしね(笑)!
さて、今回の映画は「緑の牢獄」です。
沖縄、西表島。沖縄県で第二の大きさを誇るその島にはかつて炭鉱があった。今は廃鉱となりそこは無秩序な緑に覆われている。そこからほど近いところに老婆が暮らしている。その老婆・橋間良子さんは台湾で生まれ、10歳で父と共に西表島に連れてこられた彼女は、それからの80年のほとんどをこの島で過ごし、今はたった一人で家を守っている。眠れない夜には炭鉱での暗い過去、忘れたくても消えない記憶が彼女を襲う。人生の晩年に、彼女がカメラに向けて語る想いとは。
筑豊炭田や三池炭鉱など九州には名高い炭鉱が多く存在していましたが、西表島にあったという炭鉱はそれほど深く知られてはいないように思います。私もそれがあったことくらいしか知りませんでしたし、この映画を観ようとしたきっかけもそもそも「期限が近い無料券があったから休みの日に時間が合うものを観てきた」だけで特に直前までマークもしていなかった作品です。でもそう言ったところにこそ思わぬ出会いもあったりするもの。
1930年代に最盛期を迎えていたという西表炭鉱は、しかし離島という土地柄から労働者の大半は島外から集められました。日本各地からだけでなく台湾や中国などから実情も知らされずに連れてこられた人々も多くいました。いわゆる「タコ部屋労働」を強いられた者も多くおり、中には薬物中毒にされた者もいたようです。離島という逃げ場の無いロケーションも手伝い、そこはまさに「牢獄」とも呼べる状況だったことは想像に難くありません。戦前・戦中史の中においても忘却の彼方へ追いやられようとしている歴史を、一人の老婆を通してフィルムに刻み付ける試み、それがこの映画「緑の牢獄」です。
監督は台湾出身の映画人・黄インイク。これがまだ長編2作目ですが丹念なフィールドワークの成果とも言えるこの作品は企画段階から注目され、ベルリン国際映画祭などで入選を果たしています。
うるさいくらいのセミの声やマングローブの深緑に覆われた廃校、亜熱帯の暑さをダイレクトに伝えるような画の中に佇む良子さんの姿を、映画は丁寧に綴っていきます。その顔に深く刻まれたシワやシミに長い島暮らしの哀歓が見て取れ、どこか取り留めないように見える語りの内容もさることながら、流暢な台湾語と沖縄なまりの日本語が垣根無く入り混じるその口調それ自体に、その向こうに重い歴史が横たわっているのがくみ取れます。島民の誰かと語っている時はともかく何がしか独白する時は2つの言葉が境目なく出てくるためか、良子さんの言葉には全て字幕を用意してくれているのが助かります。
この映画に対する感想をより複雑なものにしている要素が2つあります。一つは撮影開始後に良子さんの家の離れに下宿を始めたというアメリカ人青年・ルイスの存在です。ルイスは良子さんと独特の距離感を保っていますが映画も後半に入るとこの関係性、というよりルイスと集落の住民との関係性に変化が訪れます。その変化の様に「離島」という閉塞的な空間の狭隘さを見て取ることができますが、敢えてこういうものをオミットしなかった監督のセンスが見事です。
もう一つは映画後半から登場するフィクションの映像です。それは不意に現れます。良子さんの語る記憶をより「記憶」として刻み付けようというものでしょうか。ドキュメンタリー映画ながらユニークなアプローチです。とは言え人によっては感情を誘導されているようで反目を覚える箇所かもしれません。また、黄インイク監督はこの際に撮影したフィクションパートで構成した「草原の焔」という短編映画を「緑の牢獄」と同時に発表しています。
時の流れの中に埋もれようとしている歴史に、それに真摯に向き合った者にだけなしうる方法で映像として刻み込まれた、そういう「熱さ」を宿した映画です。全くノーマークで観に行った作品でしたが思いもかけず心を揺さぶられました。ミニシアターだからこそ出会える作品ともいえるでしょう。映画への逆風が止まない昨今ですが、こういうのが上映される素地と体力は残り続けていて欲しいですね。
こんばんは、小島@監督です。
その内ブラブラ散歩しに行こう、何たって定期券の範囲で行けるしね(笑)!
さて、今回の映画は「緑の牢獄」です。
沖縄、西表島。沖縄県で第二の大きさを誇るその島にはかつて炭鉱があった。今は廃鉱となりそこは無秩序な緑に覆われている。そこからほど近いところに老婆が暮らしている。その老婆・橋間良子さんは台湾で生まれ、10歳で父と共に西表島に連れてこられた彼女は、それからの80年のほとんどをこの島で過ごし、今はたった一人で家を守っている。眠れない夜には炭鉱での暗い過去、忘れたくても消えない記憶が彼女を襲う。人生の晩年に、彼女がカメラに向けて語る想いとは。
筑豊炭田や三池炭鉱など九州には名高い炭鉱が多く存在していましたが、西表島にあったという炭鉱はそれほど深く知られてはいないように思います。私もそれがあったことくらいしか知りませんでしたし、この映画を観ようとしたきっかけもそもそも「期限が近い無料券があったから休みの日に時間が合うものを観てきた」だけで特に直前までマークもしていなかった作品です。でもそう言ったところにこそ思わぬ出会いもあったりするもの。
1930年代に最盛期を迎えていたという西表炭鉱は、しかし離島という土地柄から労働者の大半は島外から集められました。日本各地からだけでなく台湾や中国などから実情も知らされずに連れてこられた人々も多くいました。いわゆる「タコ部屋労働」を強いられた者も多くおり、中には薬物中毒にされた者もいたようです。離島という逃げ場の無いロケーションも手伝い、そこはまさに「牢獄」とも呼べる状況だったことは想像に難くありません。戦前・戦中史の中においても忘却の彼方へ追いやられようとしている歴史を、一人の老婆を通してフィルムに刻み付ける試み、それがこの映画「緑の牢獄」です。
監督は台湾出身の映画人・黄インイク。これがまだ長編2作目ですが丹念なフィールドワークの成果とも言えるこの作品は企画段階から注目され、ベルリン国際映画祭などで入選を果たしています。
うるさいくらいのセミの声やマングローブの深緑に覆われた廃校、亜熱帯の暑さをダイレクトに伝えるような画の中に佇む良子さんの姿を、映画は丁寧に綴っていきます。その顔に深く刻まれたシワやシミに長い島暮らしの哀歓が見て取れ、どこか取り留めないように見える語りの内容もさることながら、流暢な台湾語と沖縄なまりの日本語が垣根無く入り混じるその口調それ自体に、その向こうに重い歴史が横たわっているのがくみ取れます。島民の誰かと語っている時はともかく何がしか独白する時は2つの言葉が境目なく出てくるためか、良子さんの言葉には全て字幕を用意してくれているのが助かります。
この映画に対する感想をより複雑なものにしている要素が2つあります。一つは撮影開始後に良子さんの家の離れに下宿を始めたというアメリカ人青年・ルイスの存在です。ルイスは良子さんと独特の距離感を保っていますが映画も後半に入るとこの関係性、というよりルイスと集落の住民との関係性に変化が訪れます。その変化の様に「離島」という閉塞的な空間の狭隘さを見て取ることができますが、敢えてこういうものをオミットしなかった監督のセンスが見事です。
もう一つは映画後半から登場するフィクションの映像です。それは不意に現れます。良子さんの語る記憶をより「記憶」として刻み付けようというものでしょうか。ドキュメンタリー映画ながらユニークなアプローチです。とは言え人によっては感情を誘導されているようで反目を覚える箇所かもしれません。また、黄インイク監督はこの際に撮影したフィクションパートで構成した「草原の焔」という短編映画を「緑の牢獄」と同時に発表しています。
時の流れの中に埋もれようとしている歴史に、それに真摯に向き合った者にだけなしうる方法で映像として刻み込まれた、そういう「熱さ」を宿した映画です。全くノーマークで観に行った作品でしたが思いもかけず心を揺さぶられました。ミニシアターだからこそ出会える作品ともいえるでしょう。映画への逆風が止まない昨今ですが、こういうのが上映される素地と体力は残り続けていて欲しいですね。
昨日、「THE IDOLM@STER SHINY COLORS 3rdLIVE TOUR PIECE ON PLANET / FUKUOKA」Day2を配信で観ていました。先月名古屋から始まったシャイニーカラーズ3rdツアーの千秋楽です。初日からわずか2か月でレベルが大きく上がっている者が何人もいるだけでも驚くのに、この福岡公演が事実上の初登場になる「SHHis(シーズ)」が既に他のメンバーとタメを張れるパフォーマンスを見せたのに驚異を覚えます。また、ライブ終盤にはアイマス15周年記念曲「なんどでも笑おう」が。先日のミリオンライブでのイベントでも歌われたこの曲、これからシンデレラガールズやSideMのイベントも控えているので一つ一つこの曲を繋いでいってくれるのではという期待も生まれます。何よりとんでもなく熱量の高いステージに、自宅でPCの小さな画面で観ていただけなのに心底昂揚しました。
こんばんは、小島@監督です。
制約が多い中でも「強い」ものを魅せてくれる人たちを観ていると、こちらとしても元気をもらえますね。
さて、今回の映画は「ガメラ3 邪神覚醒」ドルビーシネマ版です。
1999年、鳥類学者・長峰真弓(中山忍)は赤道直下の村で発見されたギャオスの死体を調査していた。一方、沖ノ鳥島近海を調査していた深海探査船「かいこう」は、深海で「ガメラの墓場」とでも言うべき夥しいほどのガメラの骨を発見する。
奈良県に住む少女・比良坂綾奈(前田愛)と弟の悟(伊藤隆大)は4年前に発生したガメラとギャオスの戦いに巻き込まれ両親を喪い親戚の家に引き取られていた。内心にガメラへの憎悪を募らせる綾奈は、ある日、同級生から度胸試しとして古くから「柳星張」という存在がが眠るとされる洞窟でそれを封印する石を持ってくるようにそそのかされる。
1999年に製作・公開された「平成ガメラ三部作」の完結編となる作品です。ガメラシリーズ55周年を記念して昨秋から三部作がドルビーシネマ版にアップグレードされ順次劇場公開されています。
人間が怪獣を見上げるショットの多い平成ガメラ三部作は、全作を通して怪獣をいわば「厄災」として描いてきたシリーズですがこの3作目に至り「ガメラに家族を殺された少女」という存在が登場します。憎悪が物語の原動力の一つとなり、怪獣がもたらす破壊が文字通りのカタストロフィとして描かれます。また、前作「レギオン襲来」からあった黙示録的世界観がより強調されているのも特徴です。興味深いことにこの破局的な終末と向き合う人々の姿を描く物語は何もこの作品に限ったことではなくまさに世紀末かつ千年紀の終わりであった1990年代後半に、「新世紀エヴァンゲリオン」を筆頭にサブカルチャー関連では散見されていました。日本だけでなく洋画でも「アルマゲドン」(1998年)「エンド・オブ・デイズ」(1999年)やドラマ「ミレニアム」(1996~99年)などが製作されているので日本だけの現象ではなかったように思います。
ところで、この「邪神覚醒」では二十八宿や巫女の血統など東洋的というか伝奇的要素も加味されているのですが、正直ちょっと嚙み合わせが悪いというか上手く作用していないのが残念なところ。特に思わせぶりに登場する内閣官房・朝倉美都(山咲千里)とプログラマー・倉田真也(手塚とおる)の2人はやたらと悪目立ちする割には物語をちゃんと牽引できておらず、据わりの悪さを覚えます。
一方、怪獣映画としてのスペクタクルはシリーズ最高と言って過言ではないでしょう。前半の渋谷を壊滅状態に追い込むガメラとギャオスの死闘、クライマックスの当時改築されたばかりの京都駅を舞台に展開する怪獣映画史上初の屋内戦の迫力はその白眉ともいえます。昔観た時はもう少し画面が暗かったような記憶があるのですが、この辺りはドルビーシネマ版ならではなのか、より色調が豊かになったように思います。記憶違いでなければこの精彩は昔観た事のある方も結構新鮮に映るのではないでしょうか。
まさかこの半年の間に1990年代を代表するこの怪獣映画を全作スクリーンで立て続けに鑑賞できる日が来るとは思いも寄りませんでした。相変わらず新作映画が上映されにくい日々が続き、緊急事態宣言の延長によって映画館自体も休業を迫られたりと苦しい時期が続く中ですが、旧作を再発見できる機会が増えているのは決して悪いことばかりではないと信じたいですね。でも土日休業を強いられるのは正直あんまりでござる。
こんばんは、小島@監督です。
制約が多い中でも「強い」ものを魅せてくれる人たちを観ていると、こちらとしても元気をもらえますね。
さて、今回の映画は「ガメラ3 邪神覚醒」ドルビーシネマ版です。
1999年、鳥類学者・長峰真弓(中山忍)は赤道直下の村で発見されたギャオスの死体を調査していた。一方、沖ノ鳥島近海を調査していた深海探査船「かいこう」は、深海で「ガメラの墓場」とでも言うべき夥しいほどのガメラの骨を発見する。
奈良県に住む少女・比良坂綾奈(前田愛)と弟の悟(伊藤隆大)は4年前に発生したガメラとギャオスの戦いに巻き込まれ両親を喪い親戚の家に引き取られていた。内心にガメラへの憎悪を募らせる綾奈は、ある日、同級生から度胸試しとして古くから「柳星張」という存在がが眠るとされる洞窟でそれを封印する石を持ってくるようにそそのかされる。
1999年に製作・公開された「平成ガメラ三部作」の完結編となる作品です。ガメラシリーズ55周年を記念して昨秋から三部作がドルビーシネマ版にアップグレードされ順次劇場公開されています。
人間が怪獣を見上げるショットの多い平成ガメラ三部作は、全作を通して怪獣をいわば「厄災」として描いてきたシリーズですがこの3作目に至り「ガメラに家族を殺された少女」という存在が登場します。憎悪が物語の原動力の一つとなり、怪獣がもたらす破壊が文字通りのカタストロフィとして描かれます。また、前作「レギオン襲来」からあった黙示録的世界観がより強調されているのも特徴です。興味深いことにこの破局的な終末と向き合う人々の姿を描く物語は何もこの作品に限ったことではなくまさに世紀末かつ千年紀の終わりであった1990年代後半に、「新世紀エヴァンゲリオン」を筆頭にサブカルチャー関連では散見されていました。日本だけでなく洋画でも「アルマゲドン」(1998年)「エンド・オブ・デイズ」(1999年)やドラマ「ミレニアム」(1996~99年)などが製作されているので日本だけの現象ではなかったように思います。
ところで、この「邪神覚醒」では二十八宿や巫女の血統など東洋的というか伝奇的要素も加味されているのですが、正直ちょっと嚙み合わせが悪いというか上手く作用していないのが残念なところ。特に思わせぶりに登場する内閣官房・朝倉美都(山咲千里)とプログラマー・倉田真也(手塚とおる)の2人はやたらと悪目立ちする割には物語をちゃんと牽引できておらず、据わりの悪さを覚えます。
一方、怪獣映画としてのスペクタクルはシリーズ最高と言って過言ではないでしょう。前半の渋谷を壊滅状態に追い込むガメラとギャオスの死闘、クライマックスの当時改築されたばかりの京都駅を舞台に展開する怪獣映画史上初の屋内戦の迫力はその白眉ともいえます。昔観た時はもう少し画面が暗かったような記憶があるのですが、この辺りはドルビーシネマ版ならではなのか、より色調が豊かになったように思います。記憶違いでなければこの精彩は昔観た事のある方も結構新鮮に映るのではないでしょうか。
まさかこの半年の間に1990年代を代表するこの怪獣映画を全作スクリーンで立て続けに鑑賞できる日が来るとは思いも寄りませんでした。相変わらず新作映画が上映されにくい日々が続き、緊急事態宣言の延長によって映画館自体も休業を迫られたりと苦しい時期が続く中ですが、旧作を再発見できる機会が増えているのは決して悪いことばかりではないと信じたいですね。でも土日休業を強いられるのは正直あんまりでござる。