今日の昼ごろ突如流れてきた、湯川英一元SEGA専務の訃報がなかなかショック。それも昨年の内に亡くなられたと言うではないですか。「SEGAなんてダセーよな」という自虐的なCMに出演して反響を呼びドリームキャストの販促を担った来歴は、クリエイターではなかったにしろゲーム史の1ページに刻まれて然るべき方ではないかと思います。
謹んでお悔やみ申し上げます。
こんばんは、小島@監督です。
ドリームキャストはちょうど学生から社会人になろうかという頃にこれでもかとばかりに遊んだハードなので結構思い入れが深いです。SEGAは今年秋にメガドライブmini2の発売を予定していますが、いずれサターンminiとドリームキャストminiも製作して欲しいなとかなりマジに願っています。
さて、今回の映画は「トップガン マーヴェリック」です。
ピート・”マーヴェリック”・ミッチェル大佐(トム・クルーズ)は華々しい戦績を持つ伝説的なパイロットだったが、今は超音速実験機「ダークスター」のテストパイロットの任に就いていた。しかし、AIによるドローン戦闘機の開発を推し進めたいケイン少将(エド・ハリス)によりプログラムは中止させられようとしていることを知り、マーヴェリックはケインの前でダークスターを目標速度のマッハ10に到達させることに成功するが、ダークスターは空中分解してしまった。
懲罰を覚悟していたマーヴェリックだったが、思わぬ辞令が下る。高難度のミッションのために召集された「トップガン」たちに任務成功のための訓練教官を務めて欲しいと言うのだ。そうして集められたパイロットたちの中には、かつてマーヴェリックの相棒だったグースの息子ブラッドリー・“ルースター”・ブラッドショウ(マイルズ・テラー)もいた…
コロナ禍によって多くの映画が延期や上映中止の憂き目に遭いました。あるものは公開規模が大幅に縮小され、あるものはスクリーンでの上映を断念し配信に発表のフォーマットを移しました。そもそも映画館が営業できないという状況すら発生し、結果的に配信による収益が製作会社にとっても無視できないものになり、「映画館で映画を観る」行為そのものの存在意義すら揺らぎ始めたこの数年にあって、何度も延期を重ねながらも頑なに映画館での上映にこだわり続けた「トップガン マーヴェリック」が遂に公開されました。
1986年に製作され80年代カルチャーのアイコンの一つともいえる「トップガン」、実に36年越しの続編です。当時から既に人気の高かった作品であったにもかかわらずここまで続編が製作されなかったのは、安易な続編が製作されることを嫌ったトム・クルーズが続編製作権を自分で買い取ってしまったからです。その後2010年ごろに一度企画が立ち上がり、製作を担ったジェリー・ブラッカイマーとトニー・スコット監督、トム・クルーズの3人でシナリオハンティングが行われていたそうですが、2012年のトニー・スコット死去により頓挫。改めて仕切り直しとなったところに「ミッション・インポッシブル/フォールアウト」などでトム・クルーズと組んだ脚本家クリストファー・マッカリーと同じくトム・クルーズが主演した「オブリビオン」で監督を務めたジョセフ・コシンスキーが招聘されて本格的に製作が開始されました。
物語の大きな特徴として、前作からの30数年という時間が常に横たわっている所にあります。マーヴェリックは現役にこだわり頑なに昇進も引退も拒んでいますが、同期の仲間は将官に出世するか退官していたり、当時主力だったF-14トムキャットも空母エンタープライズも既に退役、80年代にはいなかった女性パイロットの台頭、AIと無人戦闘機がパイロットという存在自体を過去へと押しやろうとする気配すら現れます。マーヴェリック自身にもどこか「老い」の兆しが見え始めています。そういう中にあって戦闘機パイロットとしての「矜持」を描き出し、マーヴェリックとルースターの確執が軸として貫かれています。
そして何よりこの映画最大のポイントはもちろんスカイアクション。そこら辺のアクション映画のカーチェイスを超える激烈なボリュームで空戦が展開。CG全盛の世にあってガチで実機を飛ばし俳優たちがハイGの中で顔をゆがめながら演技をするというとんでもないシーンが頻発します。何なら「単座型の航空機に乗っているシーンなのにヘルメットのバイザーに前部座席が映り込んでて複座型の後部座席に乗り込んでるのが分かる」ショットもあったりするのですが結果的にマジで飛んでいることの証明になっているという、えげつない逆説がフィルムに焼き付けられています。
こんな無茶が通ってしまうのもトム・クルーズならではでしょう。彼以外ではありえない、そんな凄味が作品内に満ち溢れています。
映像と音響、全てが一体となり、観客が経験するのは映画を鑑賞することではなく「映画を体感する」こと。トム・クルーズが映画館での上映にこだわった理由がここにあります。作中パイロットが過去の遺物とされようとしているように、CGやAIが発達していつかこんな危険なスタイルで映画を作る必要が無くなるかもしれない。事実こんな80年代スタイルを突き詰めたような製作体制はある意味で時代遅れでしょう。配信というフォーマットの定着によってカリスマ的なムービースターという存在も過去のものとなってしまうかもしれない。時代の潮流は止められない。けれどまだ「映画を映画館で観る」という経験には何物にも代えがたい意味がある。この映画を観る事は、その「意味」を真正面で受け止める事に他なりません。まさに自身の存在全てを懸けて「映画を観る喜び」を追求するトム・クルーズの姿は最早「孤高」と呼べる存在感です。
観る者に忘れ得ぬ2時間の「非日常」をもたらすこの作品、10年後、20年後にこの映画を懐かしく思い返す日がきっと来る。時代の流れをものともせず屹立する誇り高きラスト・ボーイスカウトが魅せる輝きをどうかその目に焼き付けて欲しい。
「映画」が、ここにあります。
謹んでお悔やみ申し上げます。
こんばんは、小島@監督です。
ドリームキャストはちょうど学生から社会人になろうかという頃にこれでもかとばかりに遊んだハードなので結構思い入れが深いです。SEGAは今年秋にメガドライブmini2の発売を予定していますが、いずれサターンminiとドリームキャストminiも製作して欲しいなとかなりマジに願っています。
さて、今回の映画は「トップガン マーヴェリック」です。
ピート・”マーヴェリック”・ミッチェル大佐(トム・クルーズ)は華々しい戦績を持つ伝説的なパイロットだったが、今は超音速実験機「ダークスター」のテストパイロットの任に就いていた。しかし、AIによるドローン戦闘機の開発を推し進めたいケイン少将(エド・ハリス)によりプログラムは中止させられようとしていることを知り、マーヴェリックはケインの前でダークスターを目標速度のマッハ10に到達させることに成功するが、ダークスターは空中分解してしまった。
懲罰を覚悟していたマーヴェリックだったが、思わぬ辞令が下る。高難度のミッションのために召集された「トップガン」たちに任務成功のための訓練教官を務めて欲しいと言うのだ。そうして集められたパイロットたちの中には、かつてマーヴェリックの相棒だったグースの息子ブラッドリー・“ルースター”・ブラッドショウ(マイルズ・テラー)もいた…
コロナ禍によって多くの映画が延期や上映中止の憂き目に遭いました。あるものは公開規模が大幅に縮小され、あるものはスクリーンでの上映を断念し配信に発表のフォーマットを移しました。そもそも映画館が営業できないという状況すら発生し、結果的に配信による収益が製作会社にとっても無視できないものになり、「映画館で映画を観る」行為そのものの存在意義すら揺らぎ始めたこの数年にあって、何度も延期を重ねながらも頑なに映画館での上映にこだわり続けた「トップガン マーヴェリック」が遂に公開されました。
1986年に製作され80年代カルチャーのアイコンの一つともいえる「トップガン」、実に36年越しの続編です。当時から既に人気の高かった作品であったにもかかわらずここまで続編が製作されなかったのは、安易な続編が製作されることを嫌ったトム・クルーズが続編製作権を自分で買い取ってしまったからです。その後2010年ごろに一度企画が立ち上がり、製作を担ったジェリー・ブラッカイマーとトニー・スコット監督、トム・クルーズの3人でシナリオハンティングが行われていたそうですが、2012年のトニー・スコット死去により頓挫。改めて仕切り直しとなったところに「ミッション・インポッシブル/フォールアウト」などでトム・クルーズと組んだ脚本家クリストファー・マッカリーと同じくトム・クルーズが主演した「オブリビオン」で監督を務めたジョセフ・コシンスキーが招聘されて本格的に製作が開始されました。
物語の大きな特徴として、前作からの30数年という時間が常に横たわっている所にあります。マーヴェリックは現役にこだわり頑なに昇進も引退も拒んでいますが、同期の仲間は将官に出世するか退官していたり、当時主力だったF-14トムキャットも空母エンタープライズも既に退役、80年代にはいなかった女性パイロットの台頭、AIと無人戦闘機がパイロットという存在自体を過去へと押しやろうとする気配すら現れます。マーヴェリック自身にもどこか「老い」の兆しが見え始めています。そういう中にあって戦闘機パイロットとしての「矜持」を描き出し、マーヴェリックとルースターの確執が軸として貫かれています。
そして何よりこの映画最大のポイントはもちろんスカイアクション。そこら辺のアクション映画のカーチェイスを超える激烈なボリュームで空戦が展開。CG全盛の世にあってガチで実機を飛ばし俳優たちがハイGの中で顔をゆがめながら演技をするというとんでもないシーンが頻発します。何なら「単座型の航空機に乗っているシーンなのにヘルメットのバイザーに前部座席が映り込んでて複座型の後部座席に乗り込んでるのが分かる」ショットもあったりするのですが結果的にマジで飛んでいることの証明になっているという、えげつない逆説がフィルムに焼き付けられています。
こんな無茶が通ってしまうのもトム・クルーズならではでしょう。彼以外ではありえない、そんな凄味が作品内に満ち溢れています。
映像と音響、全てが一体となり、観客が経験するのは映画を鑑賞することではなく「映画を体感する」こと。トム・クルーズが映画館での上映にこだわった理由がここにあります。作中パイロットが過去の遺物とされようとしているように、CGやAIが発達していつかこんな危険なスタイルで映画を作る必要が無くなるかもしれない。事実こんな80年代スタイルを突き詰めたような製作体制はある意味で時代遅れでしょう。配信というフォーマットの定着によってカリスマ的なムービースターという存在も過去のものとなってしまうかもしれない。時代の潮流は止められない。けれどまだ「映画を映画館で観る」という経験には何物にも代えがたい意味がある。この映画を観る事は、その「意味」を真正面で受け止める事に他なりません。まさに自身の存在全てを懸けて「映画を観る喜び」を追求するトム・クルーズの姿は最早「孤高」と呼べる存在感です。
観る者に忘れ得ぬ2時間の「非日常」をもたらすこの作品、10年後、20年後にこの映画を懐かしく思い返す日がきっと来る。時代の流れをものともせず屹立する誇り高きラスト・ボーイスカウトが魅せる輝きをどうかその目に焼き付けて欲しい。
「映画」が、ここにあります。
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