昨日開催された「ウマ娘3rdEVENT WINNING DREAM STAGE」Day2の配信を鑑賞しました。初期から応援していた人たちが身近に何人もいるので何となく意外に思われるかもしれませんが、ウマ娘のイベントをちゃんと観てみたのは初めてです。実はアニメ見始めたのも今年に入ってからだったりするのですよ。好評のゲームとアニメの勢いそのままのボルテージ高いステージを満喫。自宅のモニターでの鑑賞なのがもどかしいくらいでした。
こんばんは、小島@監督です。
一度現地で観てみたいですね。あとコール入れたいですね!
さて、今回の映画は「フリー・ガイ」です。
「フリー・シティ」、それはルール無用のオンラインゲーム。プレイヤーは「サングラス族」と呼ばれるサングラスをかけたアバターを操作しゲームの中で自由に行動できる。プレイヤーは街の中で銃撃戦を行い、銀行強盗を働き、無法であるだけよりレベルアップできるのだ。
平凡な銀行員のNPCであるガイ(ライアン・レイノルズ)は、毎朝決まった時間に目を覚まし、同じコーヒーを注文し、銀行に出勤しては何度も強盗に遭う毎日を送っていた。ある日、ガイは「モロトフ・ガール」ミリー(ジョディ・サマー)というミステリアスなサングラス族の女性に一目惚れしてしまう。そのことを親友のバディ(リル・レル・ハウリー)に話すが、「サングラス族は同じサングラス族しか相手にしない」と一笑に付されてしまう。そんな折、いつものように銀行強盗の襲撃を受けたガイは意を決して反撃に出、サングラスを奪い取ることに成功する。それを掛けてみたガイは、目の前に驚くべき世界が広がるのを目撃した!
いや、コレは面白い!!
自分の役割だけをこなし続けてきたNPCつまりモブキャラが自分の人生を生きようと奮闘します。現実と虚構の境界にメタ的な構造を持つ映画と言えば近年では「LEGOムービー」(2014年)という作品がありますが、「作りこまれた世界観の中で生きてきた男がそこからの脱出を図る」という点で傑作と誉れ高い「トゥルーマン・ショー」(1998年)を彷彿とさせる部分もあります。監督は「ナイト・ミュージアム」や「リアル・スティール」手掛けたショーン・レヴィが務めました。
物語の軸は2つ。1つは恋心をきっかけに自分の役割を逸脱して1つの人格として成長していくガイの冒険、もう1つはかつてパートナー・キーズ(ジョー・キーリー)と共に製作したシステムがゲーム内で盗用されているとしてゲームの中でその証拠を探すため活動するミリー、この2つが実に有機的に絡み合います。更にガイは自身がゲーム内のモブキャラであることを知りません。だからガイが役割を逸脱し始めた時、誰もガイがNPCであることに気づきません。しかしガイの起こす行動は、やがて世界(ゲーム)のルールを変え、プレイヤーたちの意識をも変えていくことになります。この二重世界の設定が作品を実に味わい深いものにしています。そして単なるファンタジーではなく「ゲーム」と「現実」という観客がイメージしやすいファクターにしてあることも功を奏していると言えるでしょう。
もちろん単にコメディ色の強いエンターテインメントとして観ても楽しさ満載。配給元の20世紀FOXが製作途中でディズニー傘下となったからか、クライマックスでは贅沢なクロスオーバーが実現したりしています。このお祭り感はさすがハリウッド。
ただの「背景」でしかなかった者たちに意識を向けられるようになる、それは極端に言えば想像力の喚起です。作中に登場する悪役であるアントワン(タイカ・ワイティティ)はそれが決定的に欠如したキャラクターとして登場しているのが象徴的です。
上手く戯画化された明るい作風の中に骨太なテーマと現実への風刺が見える、心底楽しくそして考えさせられる極めて優れた作品に仕上がっています。
緊急事態宣言が続き、外出もはばかられる状況が続く中も響き、評価の割に興行成績はなかなか芳しくないようですが、心底楽しい一本です。映画館で鑑賞するのにもまた心理的ハードルが高くなってる昨今ですが、是非多くの方に観て頂きたい、そして日頃の憂さを一刻忘れさせてくれる楽しさを満喫して欲しいですね。
こんばんは、小島@監督です。
一度現地で観てみたいですね。あとコール入れたいですね!
さて、今回の映画は「フリー・ガイ」です。
「フリー・シティ」、それはルール無用のオンラインゲーム。プレイヤーは「サングラス族」と呼ばれるサングラスをかけたアバターを操作しゲームの中で自由に行動できる。プレイヤーは街の中で銃撃戦を行い、銀行強盗を働き、無法であるだけよりレベルアップできるのだ。
平凡な銀行員のNPCであるガイ(ライアン・レイノルズ)は、毎朝決まった時間に目を覚まし、同じコーヒーを注文し、銀行に出勤しては何度も強盗に遭う毎日を送っていた。ある日、ガイは「モロトフ・ガール」ミリー(ジョディ・サマー)というミステリアスなサングラス族の女性に一目惚れしてしまう。そのことを親友のバディ(リル・レル・ハウリー)に話すが、「サングラス族は同じサングラス族しか相手にしない」と一笑に付されてしまう。そんな折、いつものように銀行強盗の襲撃を受けたガイは意を決して反撃に出、サングラスを奪い取ることに成功する。それを掛けてみたガイは、目の前に驚くべき世界が広がるのを目撃した!
いや、コレは面白い!!
自分の役割だけをこなし続けてきたNPCつまりモブキャラが自分の人生を生きようと奮闘します。現実と虚構の境界にメタ的な構造を持つ映画と言えば近年では「LEGOムービー」(2014年)という作品がありますが、「作りこまれた世界観の中で生きてきた男がそこからの脱出を図る」という点で傑作と誉れ高い「トゥルーマン・ショー」(1998年)を彷彿とさせる部分もあります。監督は「ナイト・ミュージアム」や「リアル・スティール」手掛けたショーン・レヴィが務めました。
物語の軸は2つ。1つは恋心をきっかけに自分の役割を逸脱して1つの人格として成長していくガイの冒険、もう1つはかつてパートナー・キーズ(ジョー・キーリー)と共に製作したシステムがゲーム内で盗用されているとしてゲームの中でその証拠を探すため活動するミリー、この2つが実に有機的に絡み合います。更にガイは自身がゲーム内のモブキャラであることを知りません。だからガイが役割を逸脱し始めた時、誰もガイがNPCであることに気づきません。しかしガイの起こす行動は、やがて世界(ゲーム)のルールを変え、プレイヤーたちの意識をも変えていくことになります。この二重世界の設定が作品を実に味わい深いものにしています。そして単なるファンタジーではなく「ゲーム」と「現実」という観客がイメージしやすいファクターにしてあることも功を奏していると言えるでしょう。
もちろん単にコメディ色の強いエンターテインメントとして観ても楽しさ満載。配給元の20世紀FOXが製作途中でディズニー傘下となったからか、クライマックスでは贅沢なクロスオーバーが実現したりしています。このお祭り感はさすがハリウッド。
ただの「背景」でしかなかった者たちに意識を向けられるようになる、それは極端に言えば想像力の喚起です。作中に登場する悪役であるアントワン(タイカ・ワイティティ)はそれが決定的に欠如したキャラクターとして登場しているのが象徴的です。
上手く戯画化された明るい作風の中に骨太なテーマと現実への風刺が見える、心底楽しくそして考えさせられる極めて優れた作品に仕上がっています。
緊急事態宣言が続き、外出もはばかられる状況が続く中も響き、評価の割に興行成績はなかなか芳しくないようですが、心底楽しい一本です。映画館で鑑賞するのにもまた心理的ハードルが高くなってる昨今ですが、是非多くの方に観て頂きたい、そして日頃の憂さを一刻忘れさせてくれる楽しさを満喫して欲しいですね。
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なんと今回で500回目の更新になります。500回て!もちろん今年に入ったあたりから「500回目は到達しよう」と意識はするようになりましたが、良くまぁここまで来たものだと自分自身に感心します。
9年半やってきて個人的に思い入れのあるものだったり撮った監督本人や主演俳優の方からリアクション頂けて驚いたものとかもあるのですが、「書いてみたら思いがけずたくさんリアクションを頂いたもの」というのもあります。その最たる回が「テラフォーマーズ」。かなりいろんな方にお褒めの言葉を頂いたりネタにして頂きました(笑)
こんばんは、小島@監督です。
これだけ長期にわたりこんな文章を書ける場が続いてくれたことにも感謝。なかなか歌会とはいかない状況が続いていますが、これからも続けられる限りは続けていきますよ。
そして今日も通常営業。今回の映画は「僕のヒーローアカデミア ワールドヒーローズミッション」です。
人類の8割が何らかの「個性」を持って生まれてくる「超人社会」、しかしその中には世代を経るごとに深く混ざり合った「個性」がやがて人類を滅亡に導くとする思想「個性終末論」を掲げる者たちもいた。世界中の「個性」保持者の殲滅を目論むカルト集団「ヒューマライズ」が不穏な動きをしていることを掴んだ世界中のヒーローたちが招集され、解決のための「世界選抜ヒーローチーム」が結成された。ナンバー1ヒーロー・エンデヴァー(声・稲田徹)の下でインターン活動をしていた緑谷出久(声・山下大輝)、爆豪勝己(声・岡本信彦)、轟焦凍(声・梶裕貴)の3人はエンデヴァーと共にオセオン国に派遣されていた。ヒューマライズの本部と目される場所への郷愁を試みる出久達だったが…
TVシリーズも5期目を数え、原作コミックと共に世界的な人気を獲得しつつある「ヒロアカ」、その第3作目となる劇場版がサマーシーズンの顔の一つとして現在公開中です。前作「ヒーローズ:ライジング」は孤立無援となった孤島で自分たちとは格上のヴィランと死闘を繰り広げる1年A組のチームワークに主眼が置かれた作品となっていましたが、今作では「ワールドヒーローズミッション」のタイトル通りに世界中に散らばって戦う彼らの活躍が描かれます。なお、似たようなタイトルの古今東西の英雄がタイムスリップして戦う格闘ゲームが昔ありましたがそれとは一切関係がありません(笑)
今作で3作目となる劇場版ヒロアカの魅力は、偏に「出し惜しみしないアイディアのボリューム」と「それをスクリーン映えする画にしてしまうハイアベレージな作画カロリー」にあります。「ただ観ているだけ」がとても楽しいのです。一見簡単なことに見えますがこれがなかなか難しい。「ヒロアカ」という作品自体に勢いがあるということの証拠でもあるでしょう。今後更に作を重ねて行ったならいずれ連作障害が避けて通れなくなるのかもしれませんが、そんな先の心配はひとまず置いておきましょう。
今作を味わい深いものにしているのがゲストキャラクターのロディ(声・吉沢亮)の存在です。基本的に雄英学園の生徒たちは夢に向かって突き進む高いモチベーションの持ち主ですがこのロディはその境遇とある事件の影響から「夢を見る」ということに見切りをつけ、どこか擦れた立ち振る舞いで世の中と向き合っています。そんなロディと出久があろうことか事件の容疑者となってしまい2人して逃亡者となるのが今作の柱の一つになっています。世界規模の事件が起きている一方で、非常にパーソナルなバディムービーを物語の肝に持ってきているのがポイントです。
更にロディ役吉沢亮の演技も素晴らしいの一言です。1作目「2人の英雄」でゲスト声優を務めた志田未来もそうでしたが、元々の演技力の高さに加えて「アニメの声優」というものに対しリスペクトを抱いてくれて研究をしているのではないでしょうか。はっきり言って他の本職の声優たちとも遜色がないレベルになっています。私も声優は基本的に本職に任せて欲しいと思っている口ではありますが、ここまでやれる人が出てくると声優の方もうかうかしてはいられないでしょう。
それはそれとしてもう一つ声の話をすると、今作ではかなり思いがけないところに林原めぐみが出演しています。エンドクレジットでその名前を確認するまで全く気付きませんでした。ゲスト声優の演技に驚く一方で芸達者なベテランの真骨頂も楽しめる1本になっています。
総じて非常に満足度の高い1本。「僕のヒーローアカデミア」アニメスタッフが出せる全身全霊が凝縮された作品に仕上がっています。今週末から4DX版、MX-4D版の上映も開始されますし、何かと暗い話題の続く昨今ですが、2時間憂き世を忘れてみてはいかがでしょう。
9年半やってきて個人的に思い入れのあるものだったり撮った監督本人や主演俳優の方からリアクション頂けて驚いたものとかもあるのですが、「書いてみたら思いがけずたくさんリアクションを頂いたもの」というのもあります。その最たる回が「テラフォーマーズ」。かなりいろんな方にお褒めの言葉を頂いたりネタにして頂きました(笑)
こんばんは、小島@監督です。
これだけ長期にわたりこんな文章を書ける場が続いてくれたことにも感謝。なかなか歌会とはいかない状況が続いていますが、これからも続けられる限りは続けていきますよ。
そして今日も通常営業。今回の映画は「僕のヒーローアカデミア ワールドヒーローズミッション」です。
人類の8割が何らかの「個性」を持って生まれてくる「超人社会」、しかしその中には世代を経るごとに深く混ざり合った「個性」がやがて人類を滅亡に導くとする思想「個性終末論」を掲げる者たちもいた。世界中の「個性」保持者の殲滅を目論むカルト集団「ヒューマライズ」が不穏な動きをしていることを掴んだ世界中のヒーローたちが招集され、解決のための「世界選抜ヒーローチーム」が結成された。ナンバー1ヒーロー・エンデヴァー(声・稲田徹)の下でインターン活動をしていた緑谷出久(声・山下大輝)、爆豪勝己(声・岡本信彦)、轟焦凍(声・梶裕貴)の3人はエンデヴァーと共にオセオン国に派遣されていた。ヒューマライズの本部と目される場所への郷愁を試みる出久達だったが…
TVシリーズも5期目を数え、原作コミックと共に世界的な人気を獲得しつつある「ヒロアカ」、その第3作目となる劇場版がサマーシーズンの顔の一つとして現在公開中です。前作「ヒーローズ:ライジング」は孤立無援となった孤島で自分たちとは格上のヴィランと死闘を繰り広げる1年A組のチームワークに主眼が置かれた作品となっていましたが、今作では「ワールドヒーローズミッション」のタイトル通りに世界中に散らばって戦う彼らの活躍が描かれます。なお、似たようなタイトルの古今東西の英雄がタイムスリップして戦う格闘ゲームが昔ありましたがそれとは一切関係がありません(笑)
今作で3作目となる劇場版ヒロアカの魅力は、偏に「出し惜しみしないアイディアのボリューム」と「それをスクリーン映えする画にしてしまうハイアベレージな作画カロリー」にあります。「ただ観ているだけ」がとても楽しいのです。一見簡単なことに見えますがこれがなかなか難しい。「ヒロアカ」という作品自体に勢いがあるということの証拠でもあるでしょう。今後更に作を重ねて行ったならいずれ連作障害が避けて通れなくなるのかもしれませんが、そんな先の心配はひとまず置いておきましょう。
今作を味わい深いものにしているのがゲストキャラクターのロディ(声・吉沢亮)の存在です。基本的に雄英学園の生徒たちは夢に向かって突き進む高いモチベーションの持ち主ですがこのロディはその境遇とある事件の影響から「夢を見る」ということに見切りをつけ、どこか擦れた立ち振る舞いで世の中と向き合っています。そんなロディと出久があろうことか事件の容疑者となってしまい2人して逃亡者となるのが今作の柱の一つになっています。世界規模の事件が起きている一方で、非常にパーソナルなバディムービーを物語の肝に持ってきているのがポイントです。
更にロディ役吉沢亮の演技も素晴らしいの一言です。1作目「2人の英雄」でゲスト声優を務めた志田未来もそうでしたが、元々の演技力の高さに加えて「アニメの声優」というものに対しリスペクトを抱いてくれて研究をしているのではないでしょうか。はっきり言って他の本職の声優たちとも遜色がないレベルになっています。私も声優は基本的に本職に任せて欲しいと思っている口ではありますが、ここまでやれる人が出てくると声優の方もうかうかしてはいられないでしょう。
それはそれとしてもう一つ声の話をすると、今作ではかなり思いがけないところに林原めぐみが出演しています。エンドクレジットでその名前を確認するまで全く気付きませんでした。ゲスト声優の演技に驚く一方で芸達者なベテランの真骨頂も楽しめる1本になっています。
総じて非常に満足度の高い1本。「僕のヒーローアカデミア」アニメスタッフが出せる全身全霊が凝縮された作品に仕上がっています。今週末から4DX版、MX-4D版の上映も開始されますし、何かと暗い話題の続く昨今ですが、2時間憂き世を忘れてみてはいかがでしょう。
お盆休みの真っ只中にこの長雨。中央線は土砂が流入して運転見合わせになり、中央道も通行止め、国道19号線も寸断されたり交通規制されたりする箇所が出てきたりでほとんど数日家から出られない状況が続きました。
一晩帰宅困難者になったというのは経験ありますが、数日にわたり自宅避難状態はあまり経験ありません。自宅が流されたり潰されたりしたわけでないだけまだマシというところではありますが。
こんばんは、小島@監督です。
結局今日になっても中央線が運休のままなので出社できないから休みにした、という異様な状況に今なっています。
さて、今回の映画は「劇場版少女☆歌劇 レヴュースタァライト」です。
国内最高峰の演劇学校・聖翔音楽学園。その99期生達は卒業を控え皆それぞれの進路を模索していた。ある者は国内の歌劇団へ、ある者はスカウトを受け海外の劇団へ、またある者は大学への進学を志した。そんな中、愛城華恋(声・小山百代)は自身の進路を決めきれないでいた。
ある時、職場見学の一環として99期生のメンバーたちは国立歌劇団の公演に招かれた。劇場へ向かう途中、地下鉄の行き先が変わる。それは、選ばれた舞台少女たちが「トップスタァ」への座を賭けて戦う「レヴュー」の幕が再び開いたことを意味していた。
アニメの企画も多種多様になってきた昨今、声優がステージに立つことを前提とした作品も珍しくなくなってきました。この「レヴュースタァライト」もミュージカルとアニメを連動させ、まずミュージカルを原作としてアニメ化された作品だそうです。アニメ作品としては2018年にTVシリーズが製作され、そのTVシリーズに新規シーンを加えて再構成した劇場版「ロンド・ロンド・ロンド」が昨年8月に公開。それらの続編となる完全新作の劇場版が今作となります。実はTVシリーズから何から全く観た事が無かったのですが、数人から強くお薦めされ、また各所からかなりの好評が聞こえてきたのに興味が湧き、上映終了ギリギリに観に行ってきました。
なるほど作劇のスタイルが他とは一線を画す作品です。物語としてはつまるところTVシリーズなどを通して築かれた人間関係に一つの区切りを付けていくに過ぎないのですが、その見せ方が特徴的です。舞台を原作とするからか、特に「レヴュー」のシーンではかなり光源が強めのショットが多用されたり映り込む背景なども舞台装置として機能させたりとトリッキーさが目立ちます。音楽面も事前発注する従来の形式ではなくシーンに合わせて作曲する手法を採っておりそのシンクロぶりは目を見張るものがあります。
非常にアバンギャルドな雰囲気の作品で、同じアニメに類例を求めるなら1997年に放送されその後劇場版も製作された「少女革命ウテナ」が近いところにあるように思えます。あるいは前衛演劇集団「天井桟敷」を率いていた寺山修司作品を思い起こさせるとも言えましょうか。「ウテナ」自体寺山修司への影響が見受けられる作品ですし、映像作品においてある種の行き詰まりから作品ごと脱却しようと試みる時、行き着いてしまうのはそこなのかもしれません。その「ウテナ」ももう20年以上前になりますし、この「レヴュースタァライト」に強い未見性を感じる方が多いのも頷けますね。
日本のアニメの面白いところは、こういう前衛的な作品がミニシアターで片隅に上映されるのではなくシネコンを中心にそれなりに大きな規模で、アニメ市場において比較的メインストリームに近いポジションで公開されることがあるところにもその特異性が見受けられると言えるでしょう。
ベースが歌劇である分歌曲だけでなく全体のサウンドデザインにもこだわりを見せており、「ガールズ&パンツァー」が音響で観る楽しみを切り拓いたのを追従するように、これもまたスクリーンでの音響の違いで見え方が変わってくるタイプの作品でしょう。大半のところでロードショーが終了してしまっていますが、今後も企画上映などで度々リバイバルされることになるのではないでしょうか。あるいは十数年後に時代の異端児として回顧上映がされたりするかもしれません。「映画館で観た方が楽しい」部類の作品です。昨今の情勢では難しいでしょうが多分応援上映とかやれたら一層楽しめる気がします。近くの映画館で上映されていたら、トライしてみてはいかがでしょう。
一晩帰宅困難者になったというのは経験ありますが、数日にわたり自宅避難状態はあまり経験ありません。自宅が流されたり潰されたりしたわけでないだけまだマシというところではありますが。
こんばんは、小島@監督です。
結局今日になっても中央線が運休のままなので出社できないから休みにした、という異様な状況に今なっています。
さて、今回の映画は「劇場版少女☆歌劇 レヴュースタァライト」です。
国内最高峰の演劇学校・聖翔音楽学園。その99期生達は卒業を控え皆それぞれの進路を模索していた。ある者は国内の歌劇団へ、ある者はスカウトを受け海外の劇団へ、またある者は大学への進学を志した。そんな中、愛城華恋(声・小山百代)は自身の進路を決めきれないでいた。
ある時、職場見学の一環として99期生のメンバーたちは国立歌劇団の公演に招かれた。劇場へ向かう途中、地下鉄の行き先が変わる。それは、選ばれた舞台少女たちが「トップスタァ」への座を賭けて戦う「レヴュー」の幕が再び開いたことを意味していた。
アニメの企画も多種多様になってきた昨今、声優がステージに立つことを前提とした作品も珍しくなくなってきました。この「レヴュースタァライト」もミュージカルとアニメを連動させ、まずミュージカルを原作としてアニメ化された作品だそうです。アニメ作品としては2018年にTVシリーズが製作され、そのTVシリーズに新規シーンを加えて再構成した劇場版「ロンド・ロンド・ロンド」が昨年8月に公開。それらの続編となる完全新作の劇場版が今作となります。実はTVシリーズから何から全く観た事が無かったのですが、数人から強くお薦めされ、また各所からかなりの好評が聞こえてきたのに興味が湧き、上映終了ギリギリに観に行ってきました。
なるほど作劇のスタイルが他とは一線を画す作品です。物語としてはつまるところTVシリーズなどを通して築かれた人間関係に一つの区切りを付けていくに過ぎないのですが、その見せ方が特徴的です。舞台を原作とするからか、特に「レヴュー」のシーンではかなり光源が強めのショットが多用されたり映り込む背景なども舞台装置として機能させたりとトリッキーさが目立ちます。音楽面も事前発注する従来の形式ではなくシーンに合わせて作曲する手法を採っておりそのシンクロぶりは目を見張るものがあります。
非常にアバンギャルドな雰囲気の作品で、同じアニメに類例を求めるなら1997年に放送されその後劇場版も製作された「少女革命ウテナ」が近いところにあるように思えます。あるいは前衛演劇集団「天井桟敷」を率いていた寺山修司作品を思い起こさせるとも言えましょうか。「ウテナ」自体寺山修司への影響が見受けられる作品ですし、映像作品においてある種の行き詰まりから作品ごと脱却しようと試みる時、行き着いてしまうのはそこなのかもしれません。その「ウテナ」ももう20年以上前になりますし、この「レヴュースタァライト」に強い未見性を感じる方が多いのも頷けますね。
日本のアニメの面白いところは、こういう前衛的な作品がミニシアターで片隅に上映されるのではなくシネコンを中心にそれなりに大きな規模で、アニメ市場において比較的メインストリームに近いポジションで公開されることがあるところにもその特異性が見受けられると言えるでしょう。
ベースが歌劇である分歌曲だけでなく全体のサウンドデザインにもこだわりを見せており、「ガールズ&パンツァー」が音響で観る楽しみを切り拓いたのを追従するように、これもまたスクリーンでの音響の違いで見え方が変わってくるタイプの作品でしょう。大半のところでロードショーが終了してしまっていますが、今後も企画上映などで度々リバイバルされることになるのではないでしょうか。あるいは十数年後に時代の異端児として回顧上映がされたりするかもしれません。「映画館で観た方が楽しい」部類の作品です。昨今の情勢では難しいでしょうが多分応援上映とかやれたら一層楽しめる気がします。近くの映画館で上映されていたら、トライしてみてはいかがでしょう。
先日新型コロナウィルスの2回目のワクチン接種を受けてきました。2回目は発熱などの副反応が出やすいというので接種日と翌日もしっかり休みを取って臨みました。
その翌日、体温は37度前後の微熱程度で、弱い倦怠感がある程度でしたが、腕の痛みが1回目以上でそれこそ「肩パン食らったような」痛みがその日一日ずっと続くのがなかなか難儀でした。38~39度台の熱が出る人もいるという中ではまぁこの程度で終わって良かったというべきでしょうか。
こんばんは、小島@監督です。
とは言え朝から晩まで一日中ほとんど眠って過ごしたって言うのも何だか久しぶり。
さて、今回の映画は「竜とそばかすの姫」です。
高知県の田舎に住む高校生・内藤すず(声・中村佳穂)は、幼い頃から歌が大好きだったが、6歳の時に母が事故死したショックで人前で歌うことができなくなってしまった。
誰に聞かせるでもなく歌を作ることだけが楽しみだったある日、すずは友人のヒロちゃん(声・幾田りら)に誘われ、世界で50億人が利用するという仮想世界「U(ユー)」に参加することに。「U」では「As(アズ)」と呼ばれる自身の分身を作り全く別の生き方を選ぶことができる。すずは自身の「As」を「ベル」と名付け「U」の中で歌い始めた。
ここでなら、私は歌える…!その喜びのままに歌うベルの歌声は瞬く間に「U」の中で評判になりベルは新星の歌姫として人気を獲得していく。
しばらく後、数億の「As」を集客してのベルの大規模コンサート開催の日、突如ライブ会場に侵入してくる存在がいた。「竜」(声・佐藤健)と呼ばれるその存在にコンサートは滅茶苦茶になるが、その竜が抱える「傷」に気づいたすずはその秘密を知りたいと思うようになる。
きっちり3年ごとに作品を発表する細田守監督、その新作は「サマーウォーズ」(2009年)以来となるネット世界を舞台にした物語です。細田監督、東映アニメーション在籍時代にも「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」(2000年)という作品を手掛けており、約10年ごとに仮想現実をモチーフにした作品を製作していることになります。この20年の間にインターネットに対するツールも変遷し、「サマーウォーズ」の「OS」ではアカウントとパスワードだったものが今作の「U」ではデバイスを介した生体認証になっていたりしています。
予告編を観た時は「サマーウォーズ」との相似が気になってしまいましたが、実際観てみるとモチーフとした舞台を同じくしているだけで展開される映像そのものは強い未見性に満ちているのに驚かされました。
美しい音楽と仮想世界という舞台装置を活かしたイマジネーション溢れる自由度の高い映像はそれだけで高揚感を湧き立たせてくれます。
そして中盤に差し掛かろうかという頃登場する「竜」がこの物語の構図を明確にします。「竜」と呼称されていますが英語表記は「Beast」であり、すずが「ベル(Belle)」と名乗っていることと合わせて「美女と野獣」のオマージュになっています。ついでに言えばガストンみたいなポジションのキャラクターも登場します。細田守監督、どうやらディズニーアニメ版の「美女と野獣」が大好きらしく、単にキャラクターの名前や基本プロットだけでなく「美女と野獣」を代表するシーンとも言えるボールルームでのダンスシーンまで作中に登場します。違うところと言えば野獣からベルへ知的なアプローチがなされるのではなくベル(すず)の方から竜の内面へ踏み込んでいくところにあるでしょう。
ところで、「バケモノの子」(2015年)以降自身で脚本も手掛ける細田守監督ですが、もしかしたら計算づくで1本の線を書き切るタイプではなく見せたいシーンやセリフという点が先にあってそれを線で結ぶタイプなのではないかと思われる節があります。
特に気になったのが終盤。竜が抱える傷の秘密を知ったすずは、仮想世界ではなく現実世界の方でアクションを起こす必要に迫られます。この時のすずの行動が、というよりそれを見守る大人たちの行動がかなりちぐはぐなのです。一歩間違えれば悲劇を誘発しそうなことを善意でやってしまう、確かに現実世界では良くあることなのですが、ここでそれは正直観たくなかった。物語の最終的な着地点は悪くないのですが、ところどころに見受けられるこういった危うさは、人によっては拒否反応すら起こすものではないかとも思います。
荘厳で繊細な音楽を圧倒的なまでの映像美で魅せるこの作品、そのカタルシスに酔いしれられるなら、これほど感動的な映像体験もなかなか無いだろうと思う一方で、私は作劇に潜むアンバランスさが少し気になってしまいました。とは言え今夏公開されている映画の中で際立った出来栄えの作品であることには違いなく、日本のアニメーション映画のパワーに感じ入るには十分すぎるくらいでしょう。外に出たくないくらい暑い日が続く中、2時間身を委ねてみるのもいいと思いますよ。
その翌日、体温は37度前後の微熱程度で、弱い倦怠感がある程度でしたが、腕の痛みが1回目以上でそれこそ「肩パン食らったような」痛みがその日一日ずっと続くのがなかなか難儀でした。38~39度台の熱が出る人もいるという中ではまぁこの程度で終わって良かったというべきでしょうか。
こんばんは、小島@監督です。
とは言え朝から晩まで一日中ほとんど眠って過ごしたって言うのも何だか久しぶり。
さて、今回の映画は「竜とそばかすの姫」です。
高知県の田舎に住む高校生・内藤すず(声・中村佳穂)は、幼い頃から歌が大好きだったが、6歳の時に母が事故死したショックで人前で歌うことができなくなってしまった。
誰に聞かせるでもなく歌を作ることだけが楽しみだったある日、すずは友人のヒロちゃん(声・幾田りら)に誘われ、世界で50億人が利用するという仮想世界「U(ユー)」に参加することに。「U」では「As(アズ)」と呼ばれる自身の分身を作り全く別の生き方を選ぶことができる。すずは自身の「As」を「ベル」と名付け「U」の中で歌い始めた。
ここでなら、私は歌える…!その喜びのままに歌うベルの歌声は瞬く間に「U」の中で評判になりベルは新星の歌姫として人気を獲得していく。
しばらく後、数億の「As」を集客してのベルの大規模コンサート開催の日、突如ライブ会場に侵入してくる存在がいた。「竜」(声・佐藤健)と呼ばれるその存在にコンサートは滅茶苦茶になるが、その竜が抱える「傷」に気づいたすずはその秘密を知りたいと思うようになる。
きっちり3年ごとに作品を発表する細田守監督、その新作は「サマーウォーズ」(2009年)以来となるネット世界を舞台にした物語です。細田監督、東映アニメーション在籍時代にも「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」(2000年)という作品を手掛けており、約10年ごとに仮想現実をモチーフにした作品を製作していることになります。この20年の間にインターネットに対するツールも変遷し、「サマーウォーズ」の「OS」ではアカウントとパスワードだったものが今作の「U」ではデバイスを介した生体認証になっていたりしています。
予告編を観た時は「サマーウォーズ」との相似が気になってしまいましたが、実際観てみるとモチーフとした舞台を同じくしているだけで展開される映像そのものは強い未見性に満ちているのに驚かされました。
美しい音楽と仮想世界という舞台装置を活かしたイマジネーション溢れる自由度の高い映像はそれだけで高揚感を湧き立たせてくれます。
そして中盤に差し掛かろうかという頃登場する「竜」がこの物語の構図を明確にします。「竜」と呼称されていますが英語表記は「Beast」であり、すずが「ベル(Belle)」と名乗っていることと合わせて「美女と野獣」のオマージュになっています。ついでに言えばガストンみたいなポジションのキャラクターも登場します。細田守監督、どうやらディズニーアニメ版の「美女と野獣」が大好きらしく、単にキャラクターの名前や基本プロットだけでなく「美女と野獣」を代表するシーンとも言えるボールルームでのダンスシーンまで作中に登場します。違うところと言えば野獣からベルへ知的なアプローチがなされるのではなくベル(すず)の方から竜の内面へ踏み込んでいくところにあるでしょう。
ところで、「バケモノの子」(2015年)以降自身で脚本も手掛ける細田守監督ですが、もしかしたら計算づくで1本の線を書き切るタイプではなく見せたいシーンやセリフという点が先にあってそれを線で結ぶタイプなのではないかと思われる節があります。
特に気になったのが終盤。竜が抱える傷の秘密を知ったすずは、仮想世界ではなく現実世界の方でアクションを起こす必要に迫られます。この時のすずの行動が、というよりそれを見守る大人たちの行動がかなりちぐはぐなのです。一歩間違えれば悲劇を誘発しそうなことを善意でやってしまう、確かに現実世界では良くあることなのですが、ここでそれは正直観たくなかった。物語の最終的な着地点は悪くないのですが、ところどころに見受けられるこういった危うさは、人によっては拒否反応すら起こすものではないかとも思います。
荘厳で繊細な音楽を圧倒的なまでの映像美で魅せるこの作品、そのカタルシスに酔いしれられるなら、これほど感動的な映像体験もなかなか無いだろうと思う一方で、私は作劇に潜むアンバランスさが少し気になってしまいました。とは言え今夏公開されている映画の中で際立った出来栄えの作品であることには違いなく、日本のアニメーション映画のパワーに感じ入るには十分すぎるくらいでしょう。外に出たくないくらい暑い日が続く中、2時間身を委ねてみるのもいいと思いますよ。
何故か梅雨明けしてから連日のように強い夕立が降るのでここ1か月近く毎週1~2回は電車が止まって帰宅するのが遅くなる、最悪ホテルで1泊するという日々が続いています。良いか悪いかこちらも段々慣れてきてしまい「夕食どこで食べよう」とか「多分これくらいの時間までには帰れるだろうからあとどれくらい時間的余裕がある」とか考えていたりします。何の気無しに職場の同僚にそんな話をしたら「いや、それはたくまし過ぎる」と突っ込まれました(苦笑)
こんばんは、小島@監督です。
とは言え、こういうのは一番疲れない方法を取るか待ち時間をいかに楽しく過ごすかしかないのですよ。
で、今日のネタもそうやって電車待ちの間に観た1本。今回の映画は「ファンタスティック・プラネット」です。
地球ではないどこかの惑星・イガム、そこでは真っ青な肌に赤い目をした巨人・ドラーグ族が文明社会を築き、小さな人類・オム族は原始的な生活を強いられ、ドラーグ族によってある者は虫けらのように踏み潰され、ある者はペットとして飼育されていた。ドラーグ族はオム族の持つ知性に脅威を感じており、議会ではオム族絶滅を図る強硬派と共存を図る穏健派とで意見が対立していた。
ある日、オム族の母子がドラーグ族の子供たちの悪戯の対象になり、その結果母親は死んでしまい、赤ん坊だけが取り残された。その様を見ていたドラーグ族の少女ティバは残された赤ん坊を拾い、「テール」と名付けペットとして飼うことを決める。ティバは「学習器」という、脳に直接知識を取り込む機械で教育を受ける際、いつもテールを手のひらに乗せていた。その結果、テールも驚異的なスピードで言語や知識を習得していった…
1973年にフランスとチェコスロヴァキアの合作で製作されたアニメーション映画です。幻想的な画風のアーティスト・ローラン・トポールが4年間かけて原画デッサンを描き、それを映像作家ルネ・ラルーが切り絵アニメーションでもって映像化した作品です。当時から高い評価を得、アニメーション映画としては初めてカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞しました。後続のクリエイターに多大な影響を与えたと言われ、日本でも宮崎駿が特に「風の谷のナウシカ」でその影響が見受けられると言われています。最近になってデジタルリマスター化され、それを受けて現在各地のミニシアターで巡回上映がされています。前から一度観てみたいと思ってましたが、ようやくそれを実現できました。
正直言ってどう説明したらいいものか、うまい言葉が見つからないくらい独創性の塊のような映像です。1日の大半を瞑想して過ごし、瞑想中は体の形が自由に変わっていくドラーグ族の生態を始め、生物もメカもどれもがシュール。ジャズピアニストであるアラン・ゴラゲールの手掛けた電子音主体の音楽も相まって唯一無二の世界観が展開します。
物語の方も一見して相当にブッ飛んでいますが、2つの生物と社会の対立と闘争とそれがもたらす変化のありさまは実にSFらしい風刺と批評精神に富んでいます。オム族をおもちゃのように扱い虐げながら一方で脅威を感じてもいるドラーグ族と、そのドラーグ族に怯えて暮らしながら同時に憎悪を募らせてもいるオム族、その狭間にドラーグ族の知識を得たテールがおり、彼の存在が恐らく長く変わらなかったであろう両者の関係に大きな変化をもたらすことになります。作中では明確な結末が用意されている対立の構図ですが、本来は簡単な答えの出ない類のものでしょう。これをどう見るかは、観客の想像力に委ねられています。
半世紀の時を経てなお「斬新」と思わせられるその世界観、「比類無い」とはまさにこのこと。普段目にする日本のアニメとは根本的に作りが違うのとヒエロニムス・ボスやサルバドール・ダリを思い起こさせるシュールレアリスム全開のビジュアルで抵抗感を覚える人も多そうですが、絶対的に他の何とも似ていない映像体験となる1本でしょう。
名古屋ではシネマテークで8月13日までの上映。百聞は一見に如かず、この機会に是非ご体験あれ。
こんばんは、小島@監督です。
とは言え、こういうのは一番疲れない方法を取るか待ち時間をいかに楽しく過ごすかしかないのですよ。
で、今日のネタもそうやって電車待ちの間に観た1本。今回の映画は「ファンタスティック・プラネット」です。
地球ではないどこかの惑星・イガム、そこでは真っ青な肌に赤い目をした巨人・ドラーグ族が文明社会を築き、小さな人類・オム族は原始的な生活を強いられ、ドラーグ族によってある者は虫けらのように踏み潰され、ある者はペットとして飼育されていた。ドラーグ族はオム族の持つ知性に脅威を感じており、議会ではオム族絶滅を図る強硬派と共存を図る穏健派とで意見が対立していた。
ある日、オム族の母子がドラーグ族の子供たちの悪戯の対象になり、その結果母親は死んでしまい、赤ん坊だけが取り残された。その様を見ていたドラーグ族の少女ティバは残された赤ん坊を拾い、「テール」と名付けペットとして飼うことを決める。ティバは「学習器」という、脳に直接知識を取り込む機械で教育を受ける際、いつもテールを手のひらに乗せていた。その結果、テールも驚異的なスピードで言語や知識を習得していった…
1973年にフランスとチェコスロヴァキアの合作で製作されたアニメーション映画です。幻想的な画風のアーティスト・ローラン・トポールが4年間かけて原画デッサンを描き、それを映像作家ルネ・ラルーが切り絵アニメーションでもって映像化した作品です。当時から高い評価を得、アニメーション映画としては初めてカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞しました。後続のクリエイターに多大な影響を与えたと言われ、日本でも宮崎駿が特に「風の谷のナウシカ」でその影響が見受けられると言われています。最近になってデジタルリマスター化され、それを受けて現在各地のミニシアターで巡回上映がされています。前から一度観てみたいと思ってましたが、ようやくそれを実現できました。
正直言ってどう説明したらいいものか、うまい言葉が見つからないくらい独創性の塊のような映像です。1日の大半を瞑想して過ごし、瞑想中は体の形が自由に変わっていくドラーグ族の生態を始め、生物もメカもどれもがシュール。ジャズピアニストであるアラン・ゴラゲールの手掛けた電子音主体の音楽も相まって唯一無二の世界観が展開します。
物語の方も一見して相当にブッ飛んでいますが、2つの生物と社会の対立と闘争とそれがもたらす変化のありさまは実にSFらしい風刺と批評精神に富んでいます。オム族をおもちゃのように扱い虐げながら一方で脅威を感じてもいるドラーグ族と、そのドラーグ族に怯えて暮らしながら同時に憎悪を募らせてもいるオム族、その狭間にドラーグ族の知識を得たテールがおり、彼の存在が恐らく長く変わらなかったであろう両者の関係に大きな変化をもたらすことになります。作中では明確な結末が用意されている対立の構図ですが、本来は簡単な答えの出ない類のものでしょう。これをどう見るかは、観客の想像力に委ねられています。
半世紀の時を経てなお「斬新」と思わせられるその世界観、「比類無い」とはまさにこのこと。普段目にする日本のアニメとは根本的に作りが違うのとヒエロニムス・ボスやサルバドール・ダリを思い起こさせるシュールレアリスム全開のビジュアルで抵抗感を覚える人も多そうですが、絶対的に他の何とも似ていない映像体験となる1本でしょう。
名古屋ではシネマテークで8月13日までの上映。百聞は一見に如かず、この機会に是非ご体験あれ。
開催自体が危ぶまれた東京五輪が何だかんだありながらどうにか開幕しました。開会式の選手団入場でゲームミュージックをかける趣向がオタク的にストライク。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーは鉄板としてもクロノ・トリガーやエースコンバットとかかなりガチ目の選曲が熱く、そこだけつい真面目に観てしまいました。
こんばんは、小島@監督です。
競技の方で言うと何気なく見始めたスケートボードが結構面白く、予選から決勝まで割としっかり観てしまいました。ええ、堀米選手金メダル獲得の瞬間もしっかりと。始まってしまった以上楽しめるものは楽しむのです。
さて、今回の映画は「アメリカン・ユートピア」です。
1977年にデビューした「トーキング・ヘッズ」のフロントマンであったデイヴィッド・バーン、バンドは1991年に解散しましたがその後も多数のソロアルバムやブライアン・イーノ、ファットボーイ・スリムなどとのコラボレーションなどで評価を集め、グラミー賞受賞歴の他、映画「ラストエンペラー」(1987年製作)の劇判を坂本龍一と共作してアカデミー賞を受賞したこともあるロックシーンのトップランナーです。そのデイヴィッド・バーンが2018年に発表したアルバム「アメリカン・ユートピア」をベースに、ワールドツアーを経た後ブロードウェイ・ショーとして再構築した舞台を上演、それを「マルコムX」(1992年)や「ブラック・クランズマン」(2018年)などで知られるスパイク・リーの手によりドキュメンタリー映画化したのがこの作品です。
一見すると舞台は三方をすだれ状に加工したチェーンをカーテンにして下げているだけ、という極めてシンプルなスタイル。開幕はデイヴィッド・バーンのソロから入り、曲が進むに従いバックダンサーやバンドメンバーがカーテンをくぐって登場していきます。面白いのは「人の動きに制限をかけたくない」というデイヴィッド・バーンの意向に沿って、バンドメンバーがギターやベースだけでなくパーカッションやキーボードまでも全てケーブルレスで登場して演奏している点。更に言えば全員裸足。ダンサーだけでなくバンドメンバーも目まぐるしくポジションを変えて縦横無尽にステージ上を動くさまをスパイク・リーは時に天井からのカメラも駆使して捉えていきます。
披露される楽曲はトーキング・ヘッズ時代の物も含め21曲。
開幕の「Here」では「赤ん坊の神経細胞は実は大人よりも多く、成長するにつれて減っていく」と語り掛け、そこからパフォーマンスで圧倒し、軽妙なトークで笑わせながら楽曲のチョイスやリリックでもって観客に対しメッセージを送ります。
舞台が上演されていたのは2019年、そう、大統領選挙が行われる前年であるところが重要です。「ブラック・ライブズ・マター」運動をご記憶の方も多いことでしょう。選挙人登録を観客に促しつつ、分断を煽るトランプ政権への痛烈な批判と皮肉と共に「失われた神経細胞」、すなわち多様な人間との繋がりを取り戻そうと語り掛けるのです。見事なまでに構築されたショーアップの向こう側に「このままでは本当にバラバラになってしまう」という危機感が見えます。デイヴィッド・バーン自体スコットランドからの移民であるが故にアメリカに「理想郷」を見続けたい想いがあるのでしょう。
と、小難しいことを考えもせずとも、この怒涛のパフォーマンス・ラッシュがもたらすグルーヴ感、歌って踊れて喋りまで面白い70近いお爺ちゃんことデイヴィッド・バーンのキレッキレのパフォーマンスを観てるだけでも滅茶苦茶に面白いのが何よりこの映画の魅力。この圧巻とも言うべき音楽の奔流はライブに飢えに飢えてた自分に強烈な一撃を食らわせていきました。
上映館が少ないのが残念ですし、名古屋での上映ももう残りわずかとなっているようですが、これは是非多くの方に観て欲しい逸品。
特にライブに渇望している方!そう!そこのあなた!こいつを食ってみな!飛ぶぞ。
こんばんは、小島@監督です。
競技の方で言うと何気なく見始めたスケートボードが結構面白く、予選から決勝まで割としっかり観てしまいました。ええ、堀米選手金メダル獲得の瞬間もしっかりと。始まってしまった以上楽しめるものは楽しむのです。
さて、今回の映画は「アメリカン・ユートピア」です。
1977年にデビューした「トーキング・ヘッズ」のフロントマンであったデイヴィッド・バーン、バンドは1991年に解散しましたがその後も多数のソロアルバムやブライアン・イーノ、ファットボーイ・スリムなどとのコラボレーションなどで評価を集め、グラミー賞受賞歴の他、映画「ラストエンペラー」(1987年製作)の劇判を坂本龍一と共作してアカデミー賞を受賞したこともあるロックシーンのトップランナーです。そのデイヴィッド・バーンが2018年に発表したアルバム「アメリカン・ユートピア」をベースに、ワールドツアーを経た後ブロードウェイ・ショーとして再構築した舞台を上演、それを「マルコムX」(1992年)や「ブラック・クランズマン」(2018年)などで知られるスパイク・リーの手によりドキュメンタリー映画化したのがこの作品です。
一見すると舞台は三方をすだれ状に加工したチェーンをカーテンにして下げているだけ、という極めてシンプルなスタイル。開幕はデイヴィッド・バーンのソロから入り、曲が進むに従いバックダンサーやバンドメンバーがカーテンをくぐって登場していきます。面白いのは「人の動きに制限をかけたくない」というデイヴィッド・バーンの意向に沿って、バンドメンバーがギターやベースだけでなくパーカッションやキーボードまでも全てケーブルレスで登場して演奏している点。更に言えば全員裸足。ダンサーだけでなくバンドメンバーも目まぐるしくポジションを変えて縦横無尽にステージ上を動くさまをスパイク・リーは時に天井からのカメラも駆使して捉えていきます。
披露される楽曲はトーキング・ヘッズ時代の物も含め21曲。
開幕の「Here」では「赤ん坊の神経細胞は実は大人よりも多く、成長するにつれて減っていく」と語り掛け、そこからパフォーマンスで圧倒し、軽妙なトークで笑わせながら楽曲のチョイスやリリックでもって観客に対しメッセージを送ります。
舞台が上演されていたのは2019年、そう、大統領選挙が行われる前年であるところが重要です。「ブラック・ライブズ・マター」運動をご記憶の方も多いことでしょう。選挙人登録を観客に促しつつ、分断を煽るトランプ政権への痛烈な批判と皮肉と共に「失われた神経細胞」、すなわち多様な人間との繋がりを取り戻そうと語り掛けるのです。見事なまでに構築されたショーアップの向こう側に「このままでは本当にバラバラになってしまう」という危機感が見えます。デイヴィッド・バーン自体スコットランドからの移民であるが故にアメリカに「理想郷」を見続けたい想いがあるのでしょう。
と、小難しいことを考えもせずとも、この怒涛のパフォーマンス・ラッシュがもたらすグルーヴ感、歌って踊れて喋りまで面白い70近いお爺ちゃんことデイヴィッド・バーンのキレッキレのパフォーマンスを観てるだけでも滅茶苦茶に面白いのが何よりこの映画の魅力。この圧巻とも言うべき音楽の奔流はライブに飢えに飢えてた自分に強烈な一撃を食らわせていきました。
上映館が少ないのが残念ですし、名古屋での上映ももう残りわずかとなっているようですが、これは是非多くの方に観て欲しい逸品。
特にライブに渇望している方!そう!そこのあなた!こいつを食ってみな!飛ぶぞ。
先日、打つと「Wi-Fiが繋がる」だの「磁力が発生する」だのいろんなことを言う人たちがいる新型コロナウィルスのワクチンを接種してきました。今回が1回目。翌日打った側の腕がずっと重いというか鈍い痛みが続いて腕を伸ばしたり挙げたりすると「う”っ」となります。打った翌日普通に出勤していたのですが、力仕事するセクションでなくて良かったと思いましたね(苦笑)
こんばんは、小島@監督です。
実は2回目の接種日ももう決まっていて、2回目は打った後に発熱する可能性も高いと聞いたので接種日と翌日も休みを取って万全の態勢で臨む所存。
さて、今回の映画は「るろうに剣心最終章 The beginning」です。
1864年、動乱の最中の京都。時代を護るか変えるか、刀を持つ者は2派に分かれ争っていた。長州の奇兵隊に入隊した緋村剣心(佐藤健)は桂小五郎(高橋一生)に剣の才を見込まれ最強の暗殺者として暗躍し、幕府側から「人斬り抜刀斎」と恐れられるようになった。
ある夜、いつものように幕府の役人暗殺の指令を受けた剣心は清里明良(窪田正孝)の執念に気圧され左頬に一太刀を受けてしまう。
しばらく後、剣心は酒場で浪士に絡まれている女を助ける。店を出たところを刺客に襲われた剣心は、その刺客を返り討ちにするがその様を酒場で助けた女に見られてしまった。
「人が殺される様を『血の雨が降る』と言いますけれど、貴方は本当に血の雨を降らすのですね…」
女はそう言った。女の名は雪代巴(有村架純)。それは剣心にとって運命的な出会いであった。
実は先月の内に観ていたのですが、いろいろ語りたいタイトルが多くて気付けばちょっと後回しにし過ぎました(苦笑)。ロングランが続いているとはいえ夏向けの新作が今週から続々と封切りされ、このままでは語る機会を完全に見失いそうだったので今回は敢えてコレで行きます。
大友啓史監督、主演佐藤健による実写版「るろうに剣心」のシリーズ5作目にして最終作となる今作は、「The beginning」と題し緋村抜刀斎が如何にして左頬に十字傷を負い「不殺」の誓いを立てるに至ったか、という原作の「追憶編」に当たる部分を描きます。
連続公開という形を取った「るろうに剣心最終章」のこの2部作、先んじて公開された「The final」ではシリーズを彩ったキャラクターが総登場して絢爛なアクションを展開するエンターテインメントに特化した作りだったのに対して、この「The beginning」では人間の情念と機微を彩度の低いダークな色調で描き上げます。相対的にアクションシーンのウェイトが少ない作りになっているものの、要所要所で鋭いアクションを見せてくれ、しかも剣心が不殺の誓いを立てる前なので過去作よりも決定的に「殺意」の純度が高いのも特徴と言えるでしょう。
基本的なストーリーラインは原作にほぼ忠実に作られているものの、原作コミックではまだダークな中にもクスっと笑えるコミカルなシーンがアクセントとして差し挟まれていたりしたのですが、一切それをしないストイックな語り口は傑作と誉れ高いアニメ版の「追憶編」に近い雰囲気です。
またこのアニメ版「追憶編」、製作サイドも意識していたのでしょう、「原作にはないけどアニメ版にはある」セリフを喋る人物が作中登場します。エンドクレジットに「製作協力」としてアニメ版の脚本を手掛けた十川誠志氏がクレジットされていたので意識的にそうしていると思われ、それが功を奏してより人物造形に深みが増しています。
加えてこの映画、もう1点語らずにはいられないのが雪代巴役の有村架純。原作そのままの可憐な佇まいには惚れ惚れとせざるを得ません。もう絶品。それこそ「御飯が何杯でも行けてしまう」レベルでこれはもう是非ご覧になって確かめて頂きたい。
シリーズ最終作という性格上、この作品を以て過去作の数々のシーンに「意味」が生まれる様にできているだけでなく、「原点」を描いている故にこの作品を出発点にするのも良し、というなかなかに優れた作品になっています。2010年代の邦画を代表するタイトルの一つとなったと言っていい「るろうに剣心」が最後の到達点を、どうぞ目に焼き付けて頂きたいですね。
こんばんは、小島@監督です。
実は2回目の接種日ももう決まっていて、2回目は打った後に発熱する可能性も高いと聞いたので接種日と翌日も休みを取って万全の態勢で臨む所存。
さて、今回の映画は「るろうに剣心最終章 The beginning」です。
1864年、動乱の最中の京都。時代を護るか変えるか、刀を持つ者は2派に分かれ争っていた。長州の奇兵隊に入隊した緋村剣心(佐藤健)は桂小五郎(高橋一生)に剣の才を見込まれ最強の暗殺者として暗躍し、幕府側から「人斬り抜刀斎」と恐れられるようになった。
ある夜、いつものように幕府の役人暗殺の指令を受けた剣心は清里明良(窪田正孝)の執念に気圧され左頬に一太刀を受けてしまう。
しばらく後、剣心は酒場で浪士に絡まれている女を助ける。店を出たところを刺客に襲われた剣心は、その刺客を返り討ちにするがその様を酒場で助けた女に見られてしまった。
「人が殺される様を『血の雨が降る』と言いますけれど、貴方は本当に血の雨を降らすのですね…」
女はそう言った。女の名は雪代巴(有村架純)。それは剣心にとって運命的な出会いであった。
実は先月の内に観ていたのですが、いろいろ語りたいタイトルが多くて気付けばちょっと後回しにし過ぎました(苦笑)。ロングランが続いているとはいえ夏向けの新作が今週から続々と封切りされ、このままでは語る機会を完全に見失いそうだったので今回は敢えてコレで行きます。
大友啓史監督、主演佐藤健による実写版「るろうに剣心」のシリーズ5作目にして最終作となる今作は、「The beginning」と題し緋村抜刀斎が如何にして左頬に十字傷を負い「不殺」の誓いを立てるに至ったか、という原作の「追憶編」に当たる部分を描きます。
連続公開という形を取った「るろうに剣心最終章」のこの2部作、先んじて公開された「The final」ではシリーズを彩ったキャラクターが総登場して絢爛なアクションを展開するエンターテインメントに特化した作りだったのに対して、この「The beginning」では人間の情念と機微を彩度の低いダークな色調で描き上げます。相対的にアクションシーンのウェイトが少ない作りになっているものの、要所要所で鋭いアクションを見せてくれ、しかも剣心が不殺の誓いを立てる前なので過去作よりも決定的に「殺意」の純度が高いのも特徴と言えるでしょう。
基本的なストーリーラインは原作にほぼ忠実に作られているものの、原作コミックではまだダークな中にもクスっと笑えるコミカルなシーンがアクセントとして差し挟まれていたりしたのですが、一切それをしないストイックな語り口は傑作と誉れ高いアニメ版の「追憶編」に近い雰囲気です。
またこのアニメ版「追憶編」、製作サイドも意識していたのでしょう、「原作にはないけどアニメ版にはある」セリフを喋る人物が作中登場します。エンドクレジットに「製作協力」としてアニメ版の脚本を手掛けた十川誠志氏がクレジットされていたので意識的にそうしていると思われ、それが功を奏してより人物造形に深みが増しています。
加えてこの映画、もう1点語らずにはいられないのが雪代巴役の有村架純。原作そのままの可憐な佇まいには惚れ惚れとせざるを得ません。もう絶品。それこそ「御飯が何杯でも行けてしまう」レベルでこれはもう是非ご覧になって確かめて頂きたい。
シリーズ最終作という性格上、この作品を以て過去作の数々のシーンに「意味」が生まれる様にできているだけでなく、「原点」を描いている故にこの作品を出発点にするのも良し、というなかなかに優れた作品になっています。2010年代の邦画を代表するタイトルの一つとなったと言っていい「るろうに剣心」が最後の到達点を、どうぞ目に焼き付けて頂きたいですね。